愛知県 長篠城 ― 2016年10月09日
愛知県新城市にある100名城の一つです。
1508 年に菅沼元成が築城したのが始まりです。 菅沼氏は今川氏側の武将でしたが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、1561 年に松平元康(のちの徳川家康)側に付きます。
しかし、1571 年に天野景貫、秋山信友らに攻められると菅沼氏は武田信玄側に付きますが、武田信玄が死去した後に徳川家康に奪還されます。
1575 年に武田勝頼による長篠城の包囲戦から歴史的に有名な長篠の戦いが始まります。 翌 1576 年、長篠城は取り壊されて新城市へ移築されました。
途中、ものすごい大雨に出会いましたが、なんとか長篠城址史跡保存館に到着します。 100名城のスタンプはこの資料館にあります。
内堀
本丸への入り口の脇では、当時の内堀跡を見る事ができます。
土塁の高さと合わせるとかなりの落差があり、また、この堀は当時は水堀だったようです。
この堀と土塁を超えて本丸に入るのは相当苦労すると思います。
内堀は保存館の駐車場の方へつながっています。
大抵の場合、堀は少し埋まっているので、当時はもっと深かったと思います。 勝頼の攻撃に耐え抜いたのも頷けます。
本丸跡
この広々としている場所が本丸のあった場所です。
城主奥平貞昌と城兵 500 名が籠城戦を行った中心となる場所です。
当時はどんな建物があったのでしょうか?
長篠城の本丸は宇連川と寒狭川(現豊川)に挟まれており、そちら側は切り立った崖になってます。 下に降りれそうですが、「マムシに注意」の怖い看板があります...。
本丸で川に面していない方は土塁で囲まれており、土塁の先は深い内堀です。 土塁の内側に石垣が見えますが、当時の物か公園整備した時のものか分りませんでした。
土塁の上を歩いているとお稲荷さんの跡がありました。 どうやら、近くのお寺に引っ越ししたみたいです。
弾正曲輪
本丸の外側を歩いてみます。 この辺りが弾正曲輪のようですが、住宅地として使用されているので、当時の面影はそれほど残ってませんでした。
鳥居強右衛門呼びかけの地
弾正曲輪の向辺りで偶然見つけました。 この場所から捕らえられた強右衛門が呼びかけたのであれば、本丸以外はほとんど落とされている状態だったと思われるので、勝頼はもうちょっと頑張れば落とせたように思いました。
まぁ、素人考えですが...。
鳥居強右衛門
長篠の戦いでは忘れてはいけない伝説となった人物です。 包囲された長篠城を抜け出した鳥居強右衛門と鈴木金七は岡崎城で家康と信長に状況を伝えます。 援軍が来る事を味方に伝える為に長篠城へ戻った強右衛門は途中で武田軍に捕まります。 「援軍はこない」と城に向かって言えば助けると言われた強右衛門ですが、「援軍が来る」と叫び城兵の士気は上がります。
しかし怒った武田軍により強右衛門は磔になりました。
鳥居強右衛門磔の場
豊川の対岸に鳥居強右衛門が磔になった場所があるのでそちらに向かいます。 近くには駐車場らしき場所がありましたが、観光用なのかはっきりしなかったです。 観光用に利用可能であれば、ハッキリ書いておいてほしい所です。 畑のあぜ道を歩くと遠くに見慣れた絵が見えました。
強右衛門磔死の場所に石碑が建てられたのは大正元年でした。
土地改良事業により現在の場所に移したそうなので、元の場所は少し違うようです。
武田勝頼は城攻めを中断して織田・徳川の連合軍へ決戦を挑みます。
設楽原の決戦場へ向かってみます...。
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