岐阜県 岩村城(2)2016年11月04日

前回の続きです。

霧ヶ井
しめ縄が飾られていますが、この井戸は城主専用の神聖な井戸だったようです。 敵が攻めてきた時、秘蔵の蛇骨を投げ入れると霧が城を覆い隠すとの伝説もあります。 蛇骨は二の丸の宝蔵に収蔵されていたそうです。
岩村城・霧ヶ井

八幡神社
ここは霧ヶ井の向側で、何らかの屋敷などがあった場所です。
この石垣の上が八幡神社になります。
岩村城・八幡神社下の石垣

先ほどの場所から急な階段を登った先が八幡曲輪で、そこに八幡神社があります。 1508 年には神社があったようです。
ただ、案内には「明治5年に山麗の現在地へ移転」と書かれていたので、当時の神社とは関係ないかも知れません。 加藤影廉を祀っています。
訪れる人も少なく、周りの雰囲気がちょっと怖かったです。
岩村城・八幡神社

菱櫓
山の斜面に合わせて石垣を組んだので菱型になりました。 この石垣の上に櫓があったようで、どうやらその建物も菱型をしていたそうです。
名前の由来にもなった菱型の櫓は全国でも珍しいそうです。
岩村城・菱櫓

本丸の六段の石垣
本丸の石垣は階段状になっており、これでは防御能力が下がってしまうので奇妙な構造です。 どうやら、本来は一番奥の高い石垣だけだったのですが、江戸時代後期に崩落を防ぐ為にこのような形状に工事したようです。
平和な時代だったので、防御力より強度を優先したのだと思います。
岩村城・本丸の六段の石垣

東曲輪
六段石垣の脇の階段から東曲輪の方へ登ります。
絵図を見ると六段石垣の上にも二層の櫓があり、また、この階段の先にも門があったみたいです。
岩村城・東曲輪へ

この辺りに二層櫓があったとの事。 今は何もありませんが...。
岩村城・東曲輪

長局埋門
東曲輪と本丸手前の長局と呼ばれる帯曲輪をつなぐ門です。
両脇の石垣の上に多門櫓をかけるようにして門が作られていました。
岩村城・長局埋門

上から見ると絶景です。
岩村城・長局埋門

帯曲輪を回り込むような場所に本丸への入り口がありました。
昔の絵図を見ると、この辺りにも門があったみたいです。 (私の見間違えでなければですが...。) 本丸周辺の構造は少し複雑です。
岩村城・本丸入口

岩村城・本丸入口

本丸
遠山景任が病没すると織田信長は5男の坊丸(織田勝長)を養子として遠山家に出します。 この頃の実質的な執務は遠山景任の妻おつやの方が行っており、信長の叔母にあたる人物です。
1572 年に武田の家臣である秋山虎繁の攻撃を受け、翌年、おつやの方は和睦に応じ虎繁の妻になります。 家臣を守る為の行為だったのかもしれませんが、信長は裏切り行為とみたかも知れません。
1575 年の長篠の戦いで武田勝頼が大敗した後、岩村城は織田信長によって包囲され落城します。 その時、おつやの方は逆さ磔で処刑されます。
ちなみに、本能寺の変80日前に織田信長は、ここに宿泊していたようです。
岩村城・本丸

本丸に入った時の入り口が狭いなと思ったら、こっちの方がメインの入り口だった東口門のようです。 
岩村城・本丸入口

本丸の周辺には当然、櫓などの建物がありましたが、内側には建物はなかったようです。 下のコンビニで買ってきた弁当を食べて一息つきます。
岩村城・本丸

埋門
本丸と二の丸をつなぐ門です。 昔の絵図を見ると、結構、立派な櫓門だったようで、門の脇には二層の納戸櫓もあったようです。
岩村城・埋門

本丸西の高石垣
ちょうど登ってきた反対側の石垣です。 かなりの落差がある立派な物です。
この石垣にそって進むと現在は駐車場として使われている出丸に着きます。
出丸まで車で登ってこれるので、本丸だけであればこちらのルートの方が楽です。
岩村城・本丸西の高石垣

先ほどの場所から引き返して二ノ丸門があった方に進みます。
石垣は野面積ですが、こちらの方もそれなりの高さがあります。 積み方的に初期の頃の石垣でしょうか?
岩村城・本丸の石垣

紅葉を見ながら帰りましょう。
岩村城・紅葉


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