神奈川県 小机城 ― 2018年05月20日
小机城の築城年代は不明ですが、1476~1480年の長尾景春の乱の中で太田道灌が小机要害攻撃した記録がある事から15世紀には存在していたと考えられています。
1524年に小田原北条氏が江戸城を攻略する時に小机城は支配下に置かれ、その時に改築されたようです。 豊臣秀吉により小田原征伐では戦場にはならず、徳川家康が関東に入ると廃城になりました。
続100名城のスタンプを押す為に、まずは小机地域ケアプラザへ。
スタンプはここの2階に置いてあります。
小机城の簡単な地図も置いてあるので先に立ち寄ると良いかも知れません。
駅の反対側に移動し、小机城に向かいます。
線路沿いに進んで行くと小高い丘のような場所が見えてきますが、そこが小机城があった場所です。 現在は「小机城址市民の森」と言う公園になっています。
住宅街の中を進むと小机城址市民の森の入り口に着きます。
周辺には駐車場は無いので駅周辺の駐車場を使用する事になります。 ただ、駅前の駐輪施設は 125cc までしか駐車できず、バイクの場合は停める所に苦労しそうです。
当日もこの辺りに数台のバイクが停めてありました。
実際、自動二輪が駐車できない駐車場が多いんですよね...。
小机城の登城路は綺麗な竹林でした。
空堀
登城路を進むと大きな空堀に突き当たります。
空堀の底には二ノ丸側の登城路から入る事ができます。
二ノ丸側から堀底に入った所。
かなりの落差があります。 また堀の右側には櫓が置かれており、この堀を超えて登るとする侵入者を攻撃するには良い位置かと思います。
大口真神の祠
二ノ丸に向かう途中の少し開けた場所に「大口真神」の札が収められている祠がありました。
真神はニホンオオカミが神格化した物です。 周辺の農作物の守護神と言った所でしょうか?
井楼跡
先程の祠があった広場から少し斜面を登った所にある井楼跡。
詳しい事は良く分からないが、武器を保管する櫓があった場所らしい。
二ノ丸手前にあった櫓台跡への横道。 どうやらここは土塁跡のようです。
登ってみましたが、それほど広くは無かったので見張り台のような場所でしょうか?
昔は井楼跡から二ノ丸への通路は土塁で分断されていたようです。
二ノ丸跡
資料が乏しく、本当に二ノ丸だったのかは不明なようです。
小机城初期の頃は、こっちが本丸だった可能性もあるようです。
広さ的には本丸と同等かそれ以上かと言った感じです。
小机城は、本丸を含めて、曲輪の役割りが良く解って無いようですね...。
二ノ丸周辺の参道に下りてみます。
かなり急な坂道で、二ノ丸が予想以上な高台にある事が判ります。
見事な竹林です。
そう言えば、城郭が公園として保存されている場合、竹林となっている場合が多いような気がします。 竹は根を張るので保存に良いなど、何か理由があるのでしょうか?
左斜面の上が二ノ丸で、奥に見える高台が本丸方面です。
歩いて来たこの道は堀底のようで、左側への分岐路は本丸と二ノ丸を分断している堀切みたいですね...。 この先の分岐路を右に進んで本丸を目指します。
本丸に到着。
グラウンドのように綺麗に整備されています。
本丸側の曲輪は、北条氏が武蔵に進出した頃に拡張されたらしいです。
要するに、太田道灌が攻めたのは二ノ丸側で、後の時代に城が拡張されて築かれたのがこの本丸と言う事らしいです。 また、どっちが本丸だったのかは今でも不明なようです。
本丸と二ノ丸の間には帯状の細長い曲輪のような場所(ただの通路?)があります。 その曲輪の様な場所との間は細い土橋のような通路で繋がっています。
土橋の両側は深い空堀になります。
櫓跡
先程の土橋を渡った先を右側に進みます。
曲輪と言ったよりも通路と言った感じでしょうか? この先に櫓跡があります。
この櫓跡は、小机城入り口付近で見た大きな空堀を見下げる位置にあり、絶好の攻撃拠点になります。
八王子城や、山中城など、北条氏の支城は秀吉の小田原征伐によって悲惨は末路を迎える場合が多いのですが、小机城は攻められる前に小田原城が開城となったので無傷でした。
ある意味、ラッキーな城のようですが、道路工事などで失われた遺構も多いようです。
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