群馬県 沼田城2018年07月14日

沼田城は 1532年に沼田顕泰によって築城されました。
この地域は上杉、北条、武田による激しい争奪戦が行われますが、1580年頃には武田氏の支配下に入ります。 武田氏滅亡後の複雑な領地争いが続きますが、北条氏滅亡後の1590年、真田信幸の領地になります。
1681年、真田信利が改易になると翌年沼田城は廃城になります。 沼田藩は再興されますが、本格的な城の復興が行われる前に明治を迎えます。

名胡桃城からの訪問で、真田三城の2つ目です。 名胡桃城からは近かったです。
続100名城のスタンプは沼田城入り口付近にある、沼田市観光案内所にあります。
バイク用に車一台分の駐車スペースを確保しているのですが、当日は満車状態だった為、そこにも車が停められてしまい、許可をもらって建物正面に停めさせてもらいました。
沼田市観光案内所

鐘楼
沼田城内に鐘楼は存在していたようですが、廃城になった時に取り壊されたようです。
明治20年頃、沼田町役場に鐘楼が建てられました。 昭和39年の市役所庁舎建設時に鐘楼は撤去されましたが、ここに移築されたようです。
沼田城とは直接は関係なさそうですね...。
沼田城・鐘楼

本丸
現在は庭園になっていますが、この辺りが本丸があった場所です。
沼田城は、廃城になった時に堀も埋め立てられており、当時の遺構は本当に少ないです。
沼田城・本丸

沼田城・本丸

西櫓台跡
沼田城の数少ない遺構の一つです。
真田信利の改易により廃城となった時、この櫓台は取り壊されずに地中に埋められたようです。 保存の為に発掘した遺構を埋め戻す事を聞きますが、それに近い状態だったようで、この石垣部分の保存状態は良好なようです。
石垣の幅は 27.5m、高さは 0.8 ~ 2.0m あるようです。
沼田城・西櫓台跡

沼田城・西櫓台跡

沼田城・西櫓台跡

利根英霊殿
昭和9年に建てられた、日清戦争、日露戦争の戦没者を祀る神社です。
ちょうどこの神社の右側が天守があったと思われる場所になります。
沼田城・利根英霊殿

天守跡
利根英霊殿の横に少し盛り上がった場所があり、そこが天守跡になります。
天守は慶長年間(1596 ~ 1614年)に建てられたと推定されており、絵図などから五重だった事が知られています。 また、沼田城からは金箔瓦も見つかっているので、立派な城だった事が推定されます。 
沼田城・天守跡

沼田城・天守跡

初代城主、真田信之とその妻、小松姫の石像です。
関ヶ原の戦いで信之は徳川側に付き、父・昌幸、弟・信繁は石田側に付きました。
身内どうしで戦う事になりますが、どちらかが生き残る事を狙った戦略だと考えられています。
また、敵方についた昌幸が「孫に会いたい」と沼田城を訪れた時、留守を守る小松姫は昌幸を城に入れませんでしたが、正覚寺で孫に会わせたとの逸話があります。
沼田城・真田信之、小松姫像

堀跡
沼田城の堀は廃城になった時に全て埋め立てられました。
テニスコードの脇に池があり、そこが昔の堀の一部だった事が判明しています。
発掘調査により、池の石垣につながる石垣も見つかっており、堀底からの石垣の高さは 6m 近かったと推定されます。 他、丸瓦なども発見されています。
沼田城・堀跡

本丸の奥にあるのが捨曲輪です。
捨曲輪とは、劣勢になった時は放棄される事を前提としており、時間稼ぎとして使われる捨て駒のような存在です。
沼田城・捨曲輪

天狗堂
昭和34年に捨曲輪内に建てられました。
中には天狗面が安置されており、木彫りの天狗面としては日本最大らしいです。
天狗面は迦葉山弥勒寺の鎮守の化身とされています。
沼田城・天狗堂

平八石
真田昌幸が首実検の後に沼田平八郎景義の首を乗せた石と伝わります。
沼田氏の内紛により会津に逃れていた平八郎は 1581年に沼田城を奪還する為に挙兵します。 戦いを避けたい真田昌幸は、調略によって平八郎を城内に誘い入れて殺害します。
沼田城・平八石

捨て曲輪の奥に眺めの良い場所がありました。
ここから先ほど訪れた名胡桃城が見えているそうなのですが、良く判らなかったです。
沼田城からの眺め

沼田城は改易によって一度廃城になっている為、あまり多くの遺構は残って無いように見えます。 しかし、埋め立てるように城を破棄したようなので、発掘すると多くの遺構が出土する可能性がありそうな場所でした。