兵庫県 赤穂城2018年09月17日

赤穂城は兵庫県赤穂市にある日本100名城の一つです。
築城年代ははっきりしないようですが、1466 ~ 1483年頃にはこの地域に城が存在していたようです。 現在の姿は 1648年に浅野長直が近世的な城郭を築城した時の物らしいです。
浅野氏は赤穂浪士で有名な刃傷事件で 1701年に改易になりますが、赤穂城は明治の廃城令まで存続します。 建物は取り壊されましたが、石垣などは史跡として保存されています。

日本100名城のスタンプは赤穂市立歴史博物館に置かれています。
バイクもここの駐車場に停めました。 広さは十分ですし、周辺には他にも駐車場があるので駐車場所には困らないかと思います。 博物館の見学後、赤穂城の散策を開始します。
赤穂市立歴史博物館

博物館の裏から赤穂城に入ります。
水堀の中に見えるのは二ノ丸北東櫓台です。 石垣の保存状態は良さそうです。
昔の絵図を見ると、この立派な水堀は昔は海と繋がっていたようです。
今は周りが埋め立てられてますが、赤穂城は元々、海城だったようです。
赤穂城・二ノ丸北東櫓台

清水門跡
博物館裏の橋を渡った先にあったのが清水門です。 門自体は現存しません。
奥に見える4つの倉は先ほどの赤穂市立歴史博物館です。 なかなか面白いデザインです。
この門は三ノ丸の入り口となる門で、1701年に浅野氏が改易になった時、大石内蔵助が退去したと伝わる門です。
赤穂城・清水門跡

武家屋敷公園
清水門を通り、三ノ丸の中を進むと左側に武家屋敷公園が見えてきます。 ここは家老格に準ずる重臣だった坂田式右衛門の屋敷があった場所で、門や間取りが復元されています。
他の城もそうですが、重臣たちの屋敷は守りを固める為に門の近くに置かれる事が多いようです。
赤穂城・武家屋敷公園

赤穂城・武家屋敷公園

赤穂城・大石邸長屋門
家老を務めた大石内蔵助の屋敷の長屋門です。 この門の先が大石内蔵助の住居であり、現在は赤穂大石神社義士資料館の敷地となっています。 資料館に入れば長屋門の内側を見学する事が出来ます。 赤穂大石神社には後で参拝していきましょう....。
江戸城で浅野長矩が起こした刃傷事件の知らせは、この門から大石内蔵助に伝えられました。
赤穂城・大石邸長屋門

近藤源八宅長屋門
現存するのは長屋門の一部で、門部分は残っていません。 写真は長屋門を内側から見た所で、下級武士の住居として使用されていた事が解ります。
近藤家は大石家とは親戚関係にありましたが、刃傷事件の時は高齢だったらしく、赤穂浪士の討ち入りには加わっていません。
赤穂城・近藤源八宅長屋門

枡形虎口附近に番所が復元されてました。
昔は大手門の虎口を通過した人を監視する役人の詰め所として使用されていましたが、復元された現在の番所は休憩所とガイダンス施設を兼ねている建物のようです。
赤穂城・番所

三ノ丸大手門
三ノ丸への出入り口としては、こちらが正門になると思います。
立派な内枡形が配置されており、表側の高麗門は 1955年に復元された物です。 内側には櫓門があったようですが現存してません。 石垣の規模から見ても、立派な物だったのだと思います。
赤穂城・三ノ丸大手門

赤穂城・三ノ丸大手門虎口

大手隅櫓
こちらも 1955年に復元された櫓です。
大手門を出た所に土産物屋があったので、ついでに土産を買っていきました。
赤穂城・大手隅櫓

赤穂大石神社
大手門から赤穂大石神社まで引き返します。
赤穂大石神社は大石内蔵助以下、四十七義士を祀る神社で、明治33年に創建された新しい神社です。 また、浅野氏三代、森蘭丸も合祀されています。
何故、森蘭丸かと言うと、赤穂藩は 1706年以降、森家が務めており、幕末までの一番長い期間を森家が治めます。
赤穂大石神社

二ノ丸門跡付近
この辺りに二ノ丸と三ノ丸の境目となる二ノ丸門があったようですが、正確な場所が良く解りませんでした。 両脇が水堀になっており、二ノ丸の石垣が繋がっているので、多分、この辺りなのだと思います。
国家老だった森主税と村上真輔は 1862年に敵対する藩士らによってここで暗殺されます。
1871年(明治4年)、暗殺者6名は真輔の子らによって高野山で殺害されます。
「高野の仇討ち」と呼ばれるこの事件は日本最後の仇討ちと言われてます。 また、この事件により「仇討ち禁止令」が出されたとも言われます。
しかし、赤穂城、仇討ちの話が多いですね...。
赤穂城・二ノ丸門付近

大石頼母助屋敷門
大石頼母助良重は内蔵助の大叔父にあたる人物です。 この薬医門は 2009年に発掘調査に基づいて建てられたそうです。 多分、正確なのは位置関係までと言った所でしょうか...。
内蔵助も同じ家老職でしたが、頼母助は二ノ丸に居を構えています。 当時の藩主、長直との関係の深さを感じます。
なお、この門の先には二ノ丸庭園があります。 本来はぐるっと二ノ丸が回れるはずだと思うのですが、当日は途中までしか行けませんでした。
赤穂城・大石頼母助屋敷門

赤穂城・二ノ丸庭園

本丸門
本丸門は 1996年に復元されました。 写真も残っており、見た目も技法もかなり忠実に再現されているようです。
少し細長い形をした内桝形で、外側の高麗門を二ノ門、内側の櫓門を一ノ門と言います。 櫓門の内部も見学でき、当時の資料などが展示されてました。 常に公開しているのか、期間限定なのかは不明です。
赤穂城・本丸門

赤穂城・本丸門

赤穂城・本丸門

本丸御殿跡
本丸には藩主の生活の場であった本丸御殿がありました。 御殿には池や庭園も備わっていました。 左側に見える大きな池が大池泉で、右側の木に少し隠れている感じなのが坪庭池泉です。 坪庭池泉は、ちょうど中庭のような場所にあった池です。
当時は池の水を旧赤穂上水道から給水し、不要な水は堀に配水していました。
赤穂城・本丸御殿跡

刎橋門跡
こちらは石垣のみで門は現存しません。 ここから外に出る事は出来ませんでした。 刎橋自体が完成していない感じでした。
赤穂城・刎橋門跡

天守台
赤穂城には天守台が存在しますが天守は建てられなかったようです。 浅野長直が築城した頃には城は防御施設としての役割は重要性を失っていました。
天守を建てる気が無かったのなら天守台も不要に思うのですが、何か思う所があったのでしょうか...。
赤穂城・天守台

厩口門
時代によって呼び名が変わっているそうです。 「厩口門」は浅野家時代で、森家の時代にでは「台所門」と呼ばれてました。
門は廃城後に失われ、周りの石垣も変更されていたようですが、発掘調査が行われ、2001年に当時の姿に復元されました。
赤穂城・厩口門

赤穂城・厩口門

赤穂城に来たのは8年ぶりですが、石垣だけしか印象に残ってませんでした。
多分、それほど変わってはいないのだと思いますが、ちょっと新鮮な感じもしました。

この後、ホテルに帰ったのですが、バイクの荷台からカメラバッグを落下させる失態を犯しました...。 今回の旅行最終日だったので、まだ良かったのですがマウントが歪んでしまい修理代が6万もかかりました...。


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