福岡県 久留米城2019年04月30日

永正年間(1504~1521年)には地元の土豪が築いた砦のような物が始まりのようで、大友氏と龍造寺氏との争いの中、城主は何度か入れ替わっているようです。
1587年に豊臣秀吉が九州を平定すると毛利秀包が入封して城の大規模な改修が行われ、石垣や天守が築かれたようです。 秀包は関ケ原の戦いで西軍側についた為に改易されます。
1621年に有馬豊氏が筑後に移ると、城の大規模な拡張が行われ、有馬氏が幕末まで城主を務めます。 現在は篠山神社の敷地となります。

蜜柑丸跡
バイクは有馬記念館篠山神社駐車場に駐車しました。 早朝8時だったのでガラガラでした。
駐車スペースは10台程度で、それほど広くはありません。
名前から想像がつくかも知れませんが、久留米藩最後の藩主、有馬頼咸(よりしげ)の孫が有馬頼寧(よりやす)で、頼寧は競馬の「有馬記念」を創設した人物です。
なお、この駐車場の辺りは「蜜柑丸」と呼ばれる腰曲輪だったようです。
久留米城・有馬記念館篠山神社駐車場

月見櫓跡
駐車場の側にある階段から城内に入ります。
この階段の横にある立派な石垣が三層建ての月見櫓があった場所で、東御門を守る重要な櫓です。 この階段を登り切った右側にあったのが東御門です。
久留米城・月見櫓跡

東御門跡
ちゃんとした説明は無かったのですが、ここに門があった事は間違い無いと思います。
この階段を少し進むと右側に月見櫓の出入り口と思われる石段がありました。
久留米城・東御門

篠山神社
元々、本丸御殿があった場所ですが、廃城後の 1877年からは篠山神社が鎮座しています。
現在の久留米城は神社なので先に参拝しておきます。
御祭神は歴代藩主4名(有馬豊氏、頼徸、頼永、頼咸)と、14代当主だった頼寧の五柱です。
続100名城のスタンプは、寺事務所前に置かれていて、早朝でも押す事が出来ました。
久留米城・篠山神社

久留米城・篠山神社

丑寅櫓跡と多門櫓跡
本丸には7つの櫓がありました。 ここは本丸の北東に位置する丑寅櫓跡です。
また、久留米城の本丸は多門櫓で囲まれており、その石垣跡も良く残っています。
久留米城・丑寅櫓

久留米城・多門櫓跡

大井戸
久留米城本丸では2つの井戸が見つかっています。
この井戸は固い岩盤をくり抜いて作られています。
久留米城・大井戸

乾櫓跡
北西の位置を守る為に建てられた乾櫓跡です。
他の櫓のように櫓台のような跡は内側からは見えません。 案内が無ければ気が付かないと思います。
元々、久留米城の北西側は筑後川があり、この方向から攻め込むのは地理的に難しかったと思います。 この櫓は見張り台的な役割の方が強よかったのかも知れません。
久留米城・乾櫓

筑後川

巽櫓跡
南東の位置にある巽櫓跡です。 三層の櫓で久留米城最大の櫓でした。
実際に櫓台の上を歩いてみると、他よりも規模が大きな櫓である事が解ります。
この櫓は天守の代わりとして使用されていたと思われます。
久留米城・巽櫓跡

久留米城・巽櫓跡

恐らく、多聞櫓があったとされる場所。
この先が東御門跡なので、これで本丸を一周回ってきました。
一度、本丸の外に出て、外側から巽櫓の方を眺めてみる事にします。
久留米城・多聞櫓跡

巽櫓付近の石垣は外から見ると2段構造になっているようです。
下段の方は打ち込みハギですが、上段の方の一部は野面積のように見えます。 築かれた年代が違うのかも知れません。
池のような部分は水堀の痕跡でしょうか?
久留米城・巽櫓跡付近

久留米城・巽櫓跡付近

訪問時間が早すぎて、有馬記念館の見学が出来なかったのは少し残念でした。
現在は神社として使用されている城跡ですが、本丸は思ったよりも当時の様子が残っている印象を受けました。