熊本県 人吉城(1)2019年05月03日

人吉城は 1198年、人吉荘の地頭として着任した相良長頼が築城したのが始まりと伝わります。 秀吉による九州平定後の 1589年、相良長毎により石垣造りの城への大改修が始まります。 人吉城の現在の姿が完成したのは 1639年頃になるので、かなり長い間工事が行われていたようです。 城主は廃藩置県まで相良氏が務めます。
廃藩置県後の 1872年に廃城となった城は払い下げられ建物などは解体されます。

人吉城には観光駐車場が多数存在しますが、今回は水の手橋を渡ってそのまま直進した先にある観光駐車場の端の方にバイクを駐車しました。 ここはそれほど大きな駐車場ではありませんが、もっと大きな駐車場もあります。
まずは100名城のスタンプが押されている人吉城歴史館を目指します。
人吉城・観光駐車場

西外曲輪
現在は「人吉城跡ふるさと歴史の広場」と呼ばれる公園になっています。
この辺りに武家屋敷があり、舗装された通路は後口馬場と思われる場所で、後口馬場の奥に大台所、御厩がありました。 大台所付近では井戸のある地下室が見つかっています。
当初、この西外曲輪が人吉城の本丸かと思ってましたが、資料館で地図を入手したら城の端の方である事を知りました。 想像しているよりも大きな城のようです。
人吉城・西外曲輪

後口馬場の井戸
この井戸は後口馬場と呼ばれた通路の上にあった井戸ですが、1640年の「お下の乱」の後に埋め立てられたようです。 相良清兵衛は藩内の実力者でしたが、横暴な振る舞いが問題となり幕府に訴えられ有罪となります。 その事に不満をもった清兵衛の一族が屋敷に籠りますが城主側の攻撃により全滅します。 その内乱が「お下の乱」と呼ばれており、この辺りは清兵衛の屋敷の門前らしいので、埋め立てられたのは内乱と無関係では無さそうです。
人吉城・後口馬場の井戸

犬童市衛門屋敷跡
江戸初期の頃は下台所や犬童市衛門の屋敷があったようです。
発掘調査で江戸初期の物と思われる建物の礎石跡がみつかっています。 建物は「お下の乱」で焼失したようで、江戸後期は渋谷三郎左衛門の屋敷でした。
人吉城・犬童市衛門屋敷跡

渋谷家屋敷跡
先程の犬童市衛門屋敷跡から少し大手門の方に移動した場所です。
ここは、1639年頃は西然太郎の屋敷があった場所でしたが、こちらも「お下の乱」で焼失したようです。 この内乱、意外と被害が大きかったようです。
天保年間(1830 ~ 1844年)には渋谷三郎左衛門の屋敷でした。 発掘調査で、土蔵や井戸、泉水、穴倉、5部屋からなる母屋などの跡が見つかっています。
人吉城・渋谷家屋敷跡

渋谷家屋敷跡にあった穴倉。
母屋の端の方にあります。
人吉城・渋谷家屋敷跡、穴倉


大手門跡
ここが城の正面入り口だった大手門があった場所です。 この石垣の上に櫓門が掛かっていたのだと思います。 門は明治初期に払い下げられて撤去されました。
1877年には廃城になっていた人吉城ですが、西南戦争で西郷軍の拠点として使用された為に戦場になります。 この門にかかっていた大手橋は西郷軍が敗走する時に火が付けられました。 撤去時期が微妙ですが、西南戦争の時に門はあったのでしょうか?
人吉城・大手門跡

大手門脇多門櫓
1707年に地震によって傾いたので修理されましたが廃城時には現存していたようです。
廃藩置県後に払い下げられ建物は撤去されました。 現在の建物は 1993年に復元された物です。 内部も見学可能で資料などが展示されています。
人吉城・大手門脇多聞櫓

人吉城・大手門脇多聞櫓

長塀跡
先程の多門櫓から連なる塀です。 1707年の地震では一部が損壊する被害が出たようで、その後修復されたようです。 こちらも多門櫓と同時期に復元されたようです。
人吉城・長塀跡

隅櫓
奥に見えるのが球磨川と胸川が合流する付近にある隅櫓です。
元々は相良清兵衛の屋敷があった場所のようですが、「お下の乱」で屋敷が焼けた跡に隅櫓が建てられました。 廃城後は払い下げられて建物は撤去されました。 現在の建物は 1989年に復元された物です。
なお、出前の空間には兵役蔵と呼ばれた蔵が3棟あった場所です。
人吉城・隅櫓

お下の乱供養碑
相良清兵衛の処分を不服とした犬童半兵衛らは内乱を起こしますが鎮圧されます。
半兵衛側の死亡者数は 121 名にもなり、遺体は亀ヶ淵の河原に埋葬されてこの石碑が建てられました。 石碑は河川工事により現在の場所に移されました。
人吉城・お下の乱供養碑

人吉城歴史館
100名城のスタンプが置かれている人吉城資料館です。
ここで人吉城の地図を入手しなければ本丸側を見逃す所でした...。
人吉城歴史館

城主の館跡
人吉城に来る時に通った県道 54号を渡った先にあるのが城主の館があった場所です。
御殿は残っておらず、現在は相良神社の敷地のようです。
最後の城主だった相良頼基は廃藩置県後にできた人吉県の知事になりますが、すぐに県が合併して公職を退きます。 廃城後の明治9年(1876年)には城内の全ての建物は撤去されており、頼基には耐えがたい光景だったかも知れません....。
人吉城・城主の館入り口

人吉城・城主の館跡

こちらのちょっと古い感じの神社が相良神社。 ここは城主の御殿があった場所です。
神社は 1880年に創建され、相良氏初代から36代までの当主が御祭神として祀られています。
人吉城・相良神社

相良神社の隣にあるのが相良護国神社です。
護国神社は国家の為に殉職した英霊を祀る神社で、各地に存在し、城跡などではよく見かけます。 相良神社と比べると、だいぶ新しい感じがします。
人吉城・相良護国神社

人吉城の本丸目指して散策を続けましょう。


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