山梨県 新府城2019年07月13日

新府城は武田勝頼によって 1581年に築城された平山城です。 勝頼は 1581年の年末には入城しているので、築城期間は1年も無く、未完成だった可能性がある城です。
織田軍の侵攻が始まると 1582年 3月には自ら城に火を付け岩殿城に移動を開始します。
武田氏滅亡後、本能寺の変で織田信長が討たれると統治者不在となり、北条氏と敵対した徳川氏が陣城として新府城を利用したようです。
1590年、小田原征伐で北条氏が滅ぶと新府城は廃城になります。

韮崎市民俗資料館
続100名城のスタンプが置かれている韮崎市民俗資料館に先に訪問します。
ここは駅からもちょっと距離があるので電車や徒歩だと大変かも知れません。 バスはあるのかな? 昔の生活用具なども展示されており、一通り見学した後、新府城に向かいます。
韮崎市民俗資料館

新府公園駐車場
資料館でスタンプを押した後、新府公園駐車場に移動します。 バイクだと10分もかからない距離ですが、資料館から徒歩で移動したらかなり時間がかかると思います。
結構、広い駐車場でした。
新府公園駐車場

東出構と堀
駐車場を出て最初に見えるのが東出構で、少し台形状に盛り上がっている場所になります。
雑草が生い茂っているのでハッキリしませんが、出構の奥は深さ 2m 、幅 6 ~ 7mの堀があります。 堀は水堀だたようで、出構は堀に水を貯めるダムのような役割だった可能性があるそうです。 水堀の跡からは中国の陶磁器片が見つかっているそうです。
新府城・東出構と堀

西出構
東出構と堀を挟んで反対側にあるのが西出構です。
堀の外側は湿地帯だったようで、それ自体も防御施設として機能していたようです。
東出構、西出構は城内から入る事ができるので後で散策する事にします。
新府城・西出構

新府城北側の堀
この辺りの堀には現在でも水が残っていますが、周辺の水田開発などにより当時の状況とはだいぶ変わってしまっているようです。
発掘調査によ新府城北側は水堀と湿地帯で防御されていた事が分かってきているようです。
新府城・北側の堀

新府城・北側の堀

乾門桝形虎口の入り口付近にある土橋です。
この土橋を渡った先に桝形虎口の外側にある一之門があります。
左側は水堀ですが、右側はそのまま崖になっている感じでした。
新府城・乾門桝形虎口の土橋

外側の一之門側からみた乾門桝形虎口の様子。
枡形の広さは東西 13m、南北 12m で、ほぼ正方形です。
発掘調査で一之門の柱穴2個がみつかっており、その場所と思われる所に印がついていました。
新府城・乾門桝形虎口

内側の二之門側から虎口を見た様子です。
こちらも発掘調査で見つかった礎石の場所に礎石に見立てた石が置かれています。
疎石の上には焼けた柱の跡も見つかっているようです。
門の復元も検討されているようですが建物に関する資料が乏しく、さらなる情報収集が行われているようです。 現実的で無い門を復元されても意味が無いですからね...。
新府城・乾門桝形虎口

木橋の橋台跡
乾門桝形虎口を通過した先には空堀があり、その上には木橋が橋が架かっていたと考えられています。 橋を架ける為に双方の曲輪から突き出た場所があります。
橋の長さは 15m ほどだったと考えられています。
新府城・木橋の橋台

帯曲輪
本丸北側にある帯曲輪です。 通路として使われていたようで、この帯曲輪は本丸の北側から東側へと続きます。 また、城に入る時に見た東西の出構も、この帯曲輪に繋がっています。
武者走りに近い役割の曲輪かと思います。
新府城・帯曲輪

西出構を内側から見た所です。 さきほどこの出構の前を横切って新府城に入りました。
出構は幅 20m、長さ 28m、高さ 3.5m あります。
西出構の東側には一段低い平場があり、こぶし大の石が敷き詰められていた事が発掘調査で判明しています。
新府城・西出構

こちらは東出構を内側から見た所。 西出構より少し幅広nかんじます。
新府城・東出構

井戸跡
直径 32m あるすり鉢状の窪地です。 発掘調査で現在の地表面から 4m まで掘りましたが底に到達しなかったようです。 当時はもっと深かったのかも知れません。
湧き水や雨水を溜める井戸だったと考えられています。
新府城・井戸

二ノ丸
東西 55m、南北 75m の曲輪で2段で構成されています。
かなり広い曲輪ですが、今のところ、建物跡は見つかっていません。 しかし、釘や陶器類が見つかっているので、何かしらの建物があったのかも知れません。
南側に馬出があるのですが、雑草が多すぎて虎口以外は良く分かりませんでした。
新府城・二ノ丸

二ノ丸には3つの虎口がありますが、その内の一つ、本丸へと通じる虎口です。
この先が本丸かと思いきや、二ノ丸と本丸の間に帯状の曲輪が存在してました。
周辺の土塁などもしっかりしている曲輪ですが、特に説明が無いので名称や役割は不明です。
新府城・二ノ丸虎口

新府城・曲輪

本丸
東西 90m、南北 150m ある大きな曲輪です。 発掘調査で礎石跡や築地塀、青磁などが見つかっている事から何等かの建物は存在していたと思います。
火災によって焼けた跡はここからも見つかっています。 折角築いた城に火を付けて退去した勝頼はどんな心境だったのでしょうか...。
新府城・本丸

本丸に鎮座している藤武神社です。
新府城築城時に稲荷曲輪に創建された神社のようですが、勝頼が退去した時に焼失します。 北条氏と敵対した徳川氏が陣城として新府城を利用した時に再興され、廃城後も地元民によって維持され続けたようです。
新府城・藤武神社

近くにある勝頼公霊社。
こちらは 1684年に創建されたと伝わります。
新府所・勝頼公霊社

西三ノ丸
三ノ丸は中央の土塁で東と西に分断されています。 建物跡などは今の所見つかっていないようです。 訪問当日は雑草が伸び放題でとても中に入れず、東三ノ丸も同じような状態でした。 仕方が無いので先に進みます。
新府城・西三ノ丸

大手桝形虎口
新府城の正面入り口を守る虎口です。 右側の土塁の間に門があったと思われますが、今の所、建物の痕跡が見つかっていないようです。
この桝形虎口の外側には大手丸馬出があります。
新府城・大手桝形虎口

大手丸馬出
大手桝形虎口の出口付近に配置された半月状の馬出です。
ここから見ると形状が良く解ります。 馬出の両サイドも小規模な桝形虎口になっていますが、ちょっと分りにくかったです。
新府城・大手丸馬出

三日月堀
丸馬出の前に築かれた三日月堀です。 当時はもっと深かったと思います。
左側の急斜面の上が大手丸馬出になり、かなりの落差があります。 当時は草や木も無く、当然、上からも狙い撃ちされるので、ここを直登するのは難しかったと思います。
新府城・三日月堀

新府城をほぼ一周回って藤武神社の入り口にある鳥居に出ました。
この階段の先が本丸になります。
新府城・藤武神社

城としての役割は非常に短かったのですが、城内に創建された神社が廃城後も存続していた事を考えると武田氏と地元は深く繋がっていたのかも知れません。
短命だった城故に情報が少ないのですが、これからも少しずつ謎が解かれて行くのだと思います。