愛知県 古宮城 ― 2020年03月20日
古宮城は 1571年に武田信玄の家臣、馬場信春によって築城されたと伝わる平山城です。
1572年には信玄は西上作成により徳川領に侵攻しており、ここは最前線の拠点だったと言えます。
1573年、裏切った奥平氏を追撃している時に徳川軍によって古宮城は攻撃され、武田軍は城に火をつけて敗走しましたと伝わります。
信玄は1573年に病没、1575年には長篠の戦いで武田勝頼が敗北すると、この地域への武田氏の支配力は低下して行きます。 廃城時期はその頃のようです。
城跡の散策前に情報が欲しかったので、先に歴史民俗資料館を訪れたのですが、開館時間よりもだいぶ早く着いてしまい、近くのコンビニでコーヒーでも買う事にしました。
実は、続100名城のスタンプはこのコンビニにも置かれており、偶然にもスタンプを押す事ができました。 予想外にスタンプが押せてしまったので、古宮城の散策を先に行う事にします。
白鳥神社
ヤマトタケルに関係があるようです。
古宮城の縄張り図を見ても神社の場所には「白鳥神社境内」としか書かれてないので、城がある前から存在していたのかも知れません。
白鳥神社前を通る県道の路肩が少し広くなっている場所があったので、バイクはそこに停めさせてもらいました。 折角なので、旅の安全を祈願して散策を開始します。
拝殿の横には上に伸びる階段があります。
階段の先にあったのが東南曲輪だった場所のようです。
なお、古宮城は私有地なので、遺構の保存やマナーには注意してください。
東南曲輪付近の空堀だと思われる場所です。
向かって左側が東南曲輪で、右上の方が東二ノ丸だと思います。
堀も昔はもっと深かったのだと思います。 東南曲輪は、それほど広い曲輪ではありませんでした。
多分、東腰曲輪付近にある堀と土塁跡だと思います。
遺構の保存状態はかなり良さそうです。
城の寿命は4~5年程度の短い期間でしたが、しっかりと造りこまれていたようです。
しばらく進むと白鳥神社の御神木が見えてきます。
立派な古木で大切に扱われている事が見て分かります。
城があった頃はハゲ山だったと思うので、廃城後に育った古木でしょうか?
御神木付近は東本丸への虎口になっているようです。
どうも枡形虎口だったようで、虎口の脇には櫓もあったようです。 比較的、短期間で作られた城の割にはしっかりと造りこまれた土の城と言った感じです。
石垣とかは無さそうですね...。
東二ノ丸付近と思われる場所です。
周囲を囲む土塁の保存状態も良さそうです。 こんな山の中で人の手が入った遺構を見ると、ちょっとテンションが上がりますね...。
縄張り図では古宮城の中央部が東本丸、東二ノ丸に分断されている構造になっています。
東本丸付近です。
土塁跡とかは、しっかりと残っています。 土塁に沿って北大竪堀の方に向かいます。
案内とかがあると良いのですが、私有地を公開させてもらっているので贅沢を言ってはダメですね...。 やはり縄張り図が欲しい場所ですね...。
古宮城の東西を分断している堀です。
この先が北大竪堀になります。
東本丸から尾根のような場所を通って下まで降りてきました。
歩いていたのは自然の尾根と言うより、人工的に作った竪土塁だったのかも知れませんね...。
今度は北大竪堀を登って西本丸の方に向かいます。
竪堀の底を歩いて斜面を登っていきます。 かなり大きな堀ですが、本当に全て人工的に掘り下げた物でしょうか? 大きな堀なので、ある程度自然の地形を利用しているのかも知れません。
西本丸です。
正方形に近い形をしており、周辺の土塁も綺麗です。 東本丸よりも、こちらの方が広く感じます。
昔、ここに大勢の武士が集まっていたのかと思うと不思議な感じがします。
今は自分だけの静かな場所です...。
西本丸の土塁から外側の堀を眺めた所。
結構な落差があります。
新城市作手歴史民俗資料館
スタンプはコンビニで押せてますが、資料館の方にも立ち寄ります。
古宮城の模型や縄張り図が展示してありました。 印刷物としては配布してませんでしたが、写真に撮っておけば散策時に役立つと思います。
ここの展示物は、今、散策してきた古宮城の構造を理解するのに役立ちました。
資料館で配布している周辺地図を見ると、この辺りには他にも城跡が多数存在しているようです。
今回は続100名城のスタンプを優先したので見送りましたが、近くに来る機会があれば、そちらも散策してみたいです。
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