愛知県 吉田城2020年03月20日

吉田城は、1505年に今川氏親の命を受けて牧野古白が築城した今橋城が始まりと伝わります。
この地域の争いは激しく、この城の城主は何度か変わりますが、今川義元による支配下で名称が吉田城になります。
桶狭間の戦いで義元が討たれると、松平家康(後の徳川家康)によって攻略されます。
豊臣政権になると家康は関東に移封され、池田輝政が城主となります。 その頃に大規模な改修が行われます。 江戸時代には譜代大名が城主を務めますが、何度も入れ替わります。
明治維新後に廃城となり、陸軍が管理していたようですが、戦後は豊橋公園として使用されています。

吉田城がある豊橋公園には野球場があり、そこの駐輪場にバイクを停めさせてもらいました。
結構、広い駐車場なので、車で来た場合はここを使うと良いかと思います。
豊橋球場駐車場

三ノ丸付近
吉田城は輪郭式と言うより、豊川を背にした梯郭式の城郭で、広範囲に三ノ丸が配置されています。 駐車場近くの三ノ丸会館がある付近も三ノ丸だった場所らしいです。
公園として整備されているので、この辺りには当時の雰囲気はあまり残ってません。
吉田城・三ノ丸会館付近

三ノ丸会館から豊川沿いの遊歩道に出ます。
その途中にあった通路ですが、場所的に考えてこの通路は金柑丸と三ノ丸の間にあった堀跡だと思います。 この感じからしても、かなり深い堀だったのだと思います。
川が近いですが、石垣とかが見当たらいので当時も空堀だったのかも知れません。
吉田城・金柑丸の堀付近

本丸と金柑丸の間にあった空堀と思われる場所です。
豊川の方から歩いていくと、本丸への出入口となる土橋の石垣に突き当たります。
土がだいぶ堆積してますが、当時はもっと深い堀だったと思います。
堀の幅もだいぶ広いですが、ここも空堀でしょうか?
吉田城・本丸の堀

吉田城・本丸の土橋

豊川側の本丸周辺の石垣です。
当時の物でしょうか? 本丸の石垣としてはちょっと低すぎる感じがします。
公園として整備した時に少し手が入っているのでしょうか?
もしかしたら、治水工事か公園化の工事で石垣が少し埋め立てられたのかも知れませんね...。
吉田城・本丸の石垣

吉田城・本丸の石垣

腰曲輪跡
絵図や模型を見ると豊川に接する側には多門櫓があったようで、川から本丸への侵入をここにあった曲輪で守っていたようです。 また、この曲輪の奥には川手櫓と呼ばれる櫓もあったようです。
資料館にあった模型では、川手櫓は鉄櫓と同じ三重構造で再現されていたので、結構大きな櫓だったようです。 なお、石垣の上に見えているのが復興された鉄櫓です。
吉田城・腰曲輪跡

北御多門跡
川の方から階段を登り、左を向いた場所に北御多門があったようです。
階段を登った先は多門櫓に囲まれており、この辺りは枡形たったようです。
この出入口は普通の出入りに使われていたとは思えないので、舟による荷物の運搬にでも使われていた場所でしょうか? この先が本丸になります。
吉田城・北御多門跡

吉田城・北御多門跡

立ち入りは出来ませんが、入道櫓の階段と思われる場所です。
本丸の四隅には櫓が配置されており、本丸の北東に位置している入道櫓だけが二重構造だったようです。 (他の三か所は三重櫓だったようです。)
吉田城・入道櫓の階段

だいぶ崩れてますが、多分、雁木だったと思われる場所です。
ここから本丸周辺を囲む石垣の上に上っていたのだと思います。
武者走りだと大勢の兵士が動くのに適さないので、雁木にしているのだと思います。
吉田城・本丸石垣の雁木

本丸跡
吉田城の本丸だった場所です。
ここには 1622年に完成した本丸御殿がありましたが、1707年の地震で倒壊します。
本丸御殿は再建されず、恐らく二ノ丸御殿に本丸御殿の機能が移ったのだと思います。
吉田城・本丸跡

鉄櫓
吉田城には天守が無かったので、鉄櫓を天守の代わりにしていたようです。
1954年に復興された鉄筋コンクリート製の隅櫓です。 鉄櫓の場所に建てられているので、鉄櫓を意識しているのだと思いますが、昔の復興建築物は忠実性を重視していない場合があるので、どこまで当時の外観を意識しているかは不明です。
また、ここの石垣だけ石材や積み方が他と異なっており、当時の石垣なのか疑問を感じました...。
この櫓は資料館として使用されており、続100名城のスタンプもここの受付に置かれています。
資料館の展示も見やすくて良かったです。
吉田城・鉄櫓

吉田城・鉄櫓

城の背後を守る、豊川。
幅の広い川ですが、当時もこんなに広かったのでしょうか?
入ってきた北御多門側から本丸の外へ出ます。
吉田城・豊川

本丸西側の堀です。
幅も広くて深い立派な堀です。
空堀だったんですかね...。 川が近いので、水堀だったとしても不思議では無いのですが...。
吉田城・本丸西側の堀

現在では二ノ丸と三ノ丸の境ははっきりしないのですが、この辺りが二ノ丸だったと思われる場所です。 二ノ丸にも二ノ丸御殿がありましたが、もう少し奥の方だったようです。 二ノ丸御殿は、二ノ丸の半分近くを占めていたようで、周囲は塀で囲まれていたようです。
資料館に、1684年頃の御殿の間取り図が展示されていたので、少なくともその頃には存在していたようです。
吉田城・二ノ丸跡

二ノ丸口門があった場所のようです。
今は何も痕跡がありませんが、この辺りが二ノ丸と三ノ丸の境目だったのだと思います。
吉田城・二ノ丸口門跡

三ノ丸があったと思われる場所です。
ただ、三ノ丸は非常に広大で、本丸、二ノ丸を囲むように配置されています。
豊橋市役所や、美術博物館がある場所も、昔は三ノ丸だった場所です。
実は吉田城は非常に大きな城で、総構えの広さは名古屋城よりも広かったようです。
これより先はほとんど普通の公園なので、本丸の方に引き返す事にします。
吉田城・三ノ丸跡

冠木門跡
本丸の南側入り口には橋があり、橋の手前には冠木門がありました。
「冠木門」となってますが、絵図を見た感じでは薬医門か高麗門だったと思います。
橋も石垣で作られた土橋だったようで、橋の両側は塀でかこまれていたようです。
吉田城・冠木門跡

先ほどの橋を渡った先にあるのが南御多門で、写真は本丸側から見た所です。
南御多門は櫓門だったようで、写真奥の石垣には千貫櫓があったようです。 多分、ここが正面入り口だったのだと思います。
吉田城の石垣をよく見ると刻印が入っている場合があるので、探してみると面白いかも知れません。
吉田城・南御多門跡

吉田城・石材の刻印

本丸の東側にある出入口である裏御門跡です。
絵図を見ると、この石垣の上に櫓門が乗っていたのだと思います。
石垣が少しダメージを受けてるのが気がかりです...。 吉田城本丸の石垣は、全体的に状態が悪そうな印象を受けました。
吉田城・裏御門跡

弥健神社
ここは昔は金柑丸と呼ばれた曲輪があった場所です。
写真右側には薄っすらと土塁の跡も見て取れます。
元々は、日本陸軍歩兵第18連隊の戦病死者を祀る神社だったようですが、現在では神武天皇(初代天皇)が祀られています。 像の顔は明治天皇だとか....。
吉田城・弥健神社

吉田城・弥健神社・神武天皇像

吉田城は軍の駐屯地にされたり、公園化された割には昔の土塁跡などが残る良い城でした。
発掘調査も行われているようなので、もっと色々な事が判明していくかも知れません。
桜の頃に来てみたいですね....。


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