福井県 佐柿国吉城2021年11月21日

国吉城は若狭国守護武田氏の家臣、粟屋勝久が 1556年に築城した山城です。
1563年から毎年のように越前朝倉氏からの攻撃を受けますが耐え続けます。
1570年に織田信長が越前侵攻の為に国吉城に入城すると事態が変わります。 今度は朝倉氏が攻められる側になり、朝倉氏は 1573年に滅ぼされてしまいます。
1582年の本能寺の変で織田信長が亡くなると、若狭武田氏は明智光秀側に加担します。 しかし、山崎合戦で光秀が豊臣秀吉に敗れると若狭武田氏も滅亡します。
1583年、秀吉の家臣、木村定光が国吉城の城主になります。
1634年に酒井忠勝が小浜城に入封すると国吉城は役目を終えて廃城になります。

若狭国吉城歴史資料館
玄蕃尾城からの移動中、道を間違ってしまい予定以上に時間がかかりましたが、若狭国吉城歴史資料館に無事到着。 駐車場も結構広いので、バイクを止める場所には困りませんでした。
ここで続100名城のスタンプと地図を入手して国吉城に移動します。 ここから国吉城の本丸に登るには30分程度かかります。 ちなみに、資料館かある場所は佐柿町奉行所があった場所です。
若狭国吉城歴史資料館

准藩士屋敷跡
資料館から国吉城に行くルートから少し外れているのですが、近くに准藩士屋敷跡があります。
1864年、水戸藩士で構成される天狗党は、尊王攘夷を進める為に京都に向かって進軍します。 しかし幕府による追撃や、頼りにしていた慶喜自身が追撃の為に出陣した事により投降して終結します。 この建物は、その時の天狗党の残党を収容した建物です。
建物は現存してませんが、石垣の一部が残っています。
小浜藩に預けられた天狗党の残党は「准藩士」として扱われ、ここで謹慎していたようです。
残党 828名のうち、352名が処刑された事件なので、ここに収容された人々は積極的に加担しなかったのかも知れません。
佐柿国吉城・准藩士屋敷跡

城主居館正面虎口跡
国吉城の麓には城主の居館がありました。 ここはその居館入り口の虎口があったと推定される場所です。 発掘調査により、石垣と石段付の門跡が見つかっています。
全ての礎石が見つかっていないので門の規模は不明なようですが、ここには外枡形があったと推定されています。
佐柿国吉城・城主居館正面虎口跡

虎口の近くにあった城主居館最下段の石垣。
今はこの程度しか残ってませんが、調査により石垣の高さは 4m 以上あったと推定されています。
佐柿国吉城・城主居館最下段の石垣

城主居館跡
城主居館跡には石垣跡がのこされており、積み方の違いからおおよその年代が判明しているよです。 城主居館跡周辺の石垣は木村定光の年代以降のようなので、織田信長が入城した頃にはここに居館は無かったかも知れません。
発掘調査で建物の礎石群、陶器片も見つかっており、少なくとも木村定光の年代以降はここに多くの建物が存在していたようです。
佐柿国吉城・城主居館跡

佐柿国吉城・城主居館跡

佐柿国吉城・城主居館跡礎石建物群

城主居館跡から登城路を登り本丸を目指します。
前日から3連続の山城なので、かなり足が重いです...。
この階段の先にフェンスがあり、「熊出没注意」の張り紙が...。 柵を自分で開けて先に進みます。
今回は、熊除けの鈴が大活躍です。
佐柿国吉城・登城路

途中で下を見ると、かなりの激坂です。
朝倉勢は、ここを登って城を攻めたのでしょうか?
難攻不落と呼ばれていたのも伊達じゃないです..。
佐柿国吉城・登城路

二之丸
山の中腹に二之丸があるので少し休憩します。
二之丸は食違虎口で2つの曲輪に分割されています。 虎口や曲輪周辺の土塁もよく残っています。 福寿院側からの登城路を守るのが、この曲輪の役割でしょうか?
二之丸本丸までは約 200m 程度ですが、この先も登り坂が続きます。
佐柿国吉城・二之丸跡

佐柿国吉城・二之丸跡

佐柿国吉城・二之丸跡

本丸下帯曲輪の石垣
本丸近くまで登ってくると、本丸下にある帯曲輪の石垣跡が見えてきます。
この石垣は、粟屋氏の時代に築かれた石垣の一部と考えられています。
自然石が多いですが、石仏などを転用した物も見つかっています。
上下2段構成の石垣だったようで、上半分を人為的に崩して地中に埋めてありました。
佐柿国吉城・本丸下帯曲輪の石垣

本丸下北側の堀切
北側の連郭曲輪群と本丸を分断する堀切です。 堀切は尾根を掘り下げただけの物が多いのですが、この堀切は両側が石垣になっています。 この石垣も粟屋氏の時代に築かれた物のようです。
当時は、この堀切を渡る為の橋もあったようです。
奥に並んでいるのは、石垣に使われていた石仏かも知れません。
ここを右に行くと本丸、左に行くと連郭曲輪群になります。
佐柿国吉城・本丸下北側の堀切

連郭曲輪群
まずは本丸北側の連郭曲輪群から。
入手した地図では「Ⅱ郭」と記載されている場所です。
佐柿国吉城・連郭曲輪群

下に見えるのが「Ⅲ郭」だと思います。 結構な落差があり、降りると戻るのが大変そうだったので、ここまでにしておきます。
連郭曲輪群からの眺めは良く、水面が穏やかなので若狭湾が湖っぽく見えます。
信長もここから若狭湾を見たのかも知れません。
佐柿国吉城・連郭曲輪群

佐柿国吉城・連郭曲輪群からの眺め

先ほどの堀切まで戻ると、目の前に本丸が見えます。
ここを登れば本丸ですが、足が上がらない...。
佐柿国吉城・本丸

本丸北西虎口
石垣があった事は分りますが、廃城時に崩されたのか、表面上は痕跡が分りにくいです。
発掘調査で礎石や本丸に登る石段も見つかっており、ここには立派な石垣造りの門があったようです。
佐柿国吉城・本丸北西虎口

佐柿国吉城・本丸北西虎口付近の石垣

本丸
佐柿国吉城では、一番広い曲輪だと思います。
ここからの見晴らしは非常に良く、敵の動きは丸見えだったと思います。
周辺の土塁は削れてしまったのか、ちょと分りにくい感じです。
佐柿国吉城・本丸

本丸南隅櫓台跡。 多少、盛り上がっている感じはしますが、案内が無ければ気付かないかも知れません。 発掘調査で礎石を抜き取った跡が見つかっており、その規模からもっと高かったようです。
また、石垣として使われたと思われる石材も多く見つかっている事から、当時は石垣造りだったようです。 意外と近代的な造りの山城だったのかも知れません。
佐柿国吉城・本丸南隅櫓台

本丸東虎口跡
当時の姿を想像するは難しいのですが、この辺りが石垣で作られた本丸東側の虎口だったようです。 発掘調査で石垣跡も見つかっているようですが、埋没保存しているのだと思います。
門もあったようですが、正確な位置は判明していないようです。
佐柿国吉城・本丸東虎口跡

ようやくコロナによる移動自粛が解除されましたが冬の到来。
本格的な旅の再開は来年の春以降でしょうか...。
年齢的にもキツくなっているので、再度、感染が広まるような事が無ければ良いのですが...。


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