山口県 高嶺城跡 ― 2022年05月01日
高嶺城跡は大内氏の詰城で、大内義長によって築城されました。 義長は、大内氏当主でしたが、陶隆房のクーデターによって樹立した傀儡政権の当主でした。 その隆房が厳島の戦いで毛利元就に敗れると、義長の影響力も著しく低下します。 周辺からの脅威に対抗する為、1556年に高嶺城の築城を開始します。 ただし、城が完成する前に毛利氏に攻め込まれ、大内氏は滅亡します。
未完成だった高嶺城の築城は毛利氏に引き継がれ、毛利氏の拠点として使用されます。
毛利氏は、関ヶ原の戦いで敗れて減封されると拠点を萩城に移します。 1615年、一国一城令により、高嶺城は廃城になります。
糸米川砂防園駐車場
高嶺城跡は林道の先に駐車スペースがあるそうですが、道幅がかなり狭いので糸米川砂防園から歩いて登る事にします。 早朝 7:30 ですが、数台の車が既に駐車してました。
実際に林道を登ると、思ったよりも道幅が狭く、しかも路肩が側溝になっています。
結局の所、車とすれ違う事は無かったのですが、ここを登るのは少し勇気がいります。
急坂と言うほどではありませんが、淡々と登坂が続きます。
20分ほどでテレビ塔に到着。
勇気があれば、ここまで車で登ってくる事ができます。
高嶺城の地図と現在位置がマッピングできず、見逃してしまったのですが、このテレビ塔の後ろにも曲輪が連なっていたようです。 もうちょっとわかりやすい案内があると良かったのですが...。
ここから主郭までは 500m ほどです。
ここから先は、本格的な山道です。
しばらく登ると四阿が見えてきたので少し休憩します。
登ってる時は気が付かなったのですが、この登坂自体が斜面を利用した連郭式の曲輪だったようです。 余裕が無かったので登るので精一杯でした...。
四阿から更に登ると開けた場所に出ます。
ここが、高嶺城の縄張り中央付近にある大きな曲輪跡です。
大内氏の高嶺城は未完成で、毛利氏が城を完成させた事になっていますが、手が加えられたのは一部のようです。 かなり大きな曲輪です。
先ほどの曲輪から、本丸の方に進みます。
幅は狭いですが、この辺りも曲輪として使われていたのでしょう。
本丸の手前に到着。 ここから見て、一段高い所が本丸です。
ここまで堀切のような物は無く、曲輪が全部繋がってるような感じでした。
右側に回り込むと本丸の石垣が見れるようなので、先に石垣を見学します。
本丸の石垣
本丸の北側は一段低い曲輪になっており、そこから本丸の石垣を見る事ができます。
石垣は、なかなか立派で、思ったよりも原型を留めています。
この石垣を築いたのは、大内氏、毛利氏のどちらでしょうか? 大内義長が 1556年に築城を開始しますが、翌年には滅亡しています。 工期があまりにも短いので、当時の大内氏の力量を考えると、個人的には毛利氏が築いたように思えます。
先ほどの分岐点に戻り、本丸を目指して最後の坂を登ります。
2段構造の石垣が見えてきました。
この辺りは本丸への虎口だったのかも知れません。
本丸は石垣造りの立派な物だったようです。
本丸側から、登ってきた斜面を眺めた所。
結構な落差があります。
本丸
礎石跡が見つかっており、この曲輪いっぱいに2つの大きな建物があったようです。 周辺からは瓦も見つかっています。 見渡しの良好です。
毛利氏は城を改修すると、高嶺城に城番として市川経好を置きました。 経好は、ここで周辺を監視しながら生活していたのかも知れません。 実際、1569年の「大内輝弘の乱」の時は高嶺城が包囲されます。 都合悪く、その時、経好は不在でしたが妻が指揮を握り城を守り抜きました。
乱の首謀者、大内輝弘は父が起こした謀反の為に大友氏に亡命していました。 宗麟の支援により反乱を越しますがあえなく鎮圧されます。
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