広島県 新高山城跡 ― 2022年05月03日
毛利元就の三男小早川隆景が高山城に入城した翌年の 1552年に対岸に新高山城を築城して居を移します。 新高山城の築城時には、既に副塁として砦が存在していたようなので、「修築した」の方が正確なのかも知れません。
隆景は後に三原城を築城して拠点を移した為、しばらくして新高山城は廃城となります。
新高山城のパンフレットが新高山城跡駐車場にも置かれていたので助かりました。 続100名城のスタンプは少し離れた本郷生涯学習センターに置かれています。 歩いて押しに行くには少し距離があるかも知れません。 駐車場もそれなりの広さがあるので、停める場所には困らないと思います。
駐車場から本丸までの距離は大体1km 程度です。
下から新高山城が良く見えます。 あそこに砦があると思うと、かなりの威圧感があります。
しかし、あそこまで登るのかと思うと、長旅で体力が削られている事もあり少し気が重くなります...。
令和3年7月の大雨により登山道が流されてしまい、入山出来ないとのウワサがありました。
訪問時は仮設工事で入山できる状態でした。
なかなか来れる場所では無いので、入山できて良かったです。
番所跡
しばらく遊歩道を登ると右側に番所跡が見えます。
番所は軽石の段、中の段、下の段の三つの曲輪から構成されています。
周辺には土塁跡のような物も見て取れます。
地図を見ても場所が分からなかったのですが、ここの東と西に東の番所、西の番所と呼ばれる曲輪が存在するそうです。
国真寺跡
番所の先にあるのが国真寺跡で、小早川氏の菩提寺でした。
小早川隆景は、父である毛利元就の七回忌、母である妙玖尼の三十三回忌の為に国真寺を建立しました。 寺院は東西 41m、南北 72m もあり、瓦片、湧水池、築地塀の跡も見つかっています。
三原城に拠点を移した時に国真寺も三原に移り、三原市に宗光寺として現存します。
国真寺跡から少し山道を登ると中ノ丸(二ノ丸)の虎口が見えます。
この石段の上に門があったようです。 わざわざ後から作るとも思えないので、この石段も当時の遺構なのかも知れません。
中ノ丸(二ノ丸)
案内では「五段の郭からなる中ノ丸」と説明されてますが、その印象は薄かったです。
曲輪の周辺が通路で囲まれており、中ノ丸への入り口が複雑な構造になっているので、「五段」と言われるとそうなのかも知れませんが、そこまでの印象は無かったです。
中ノ丸の西側には「石弓ノ段」、「西ノ丸」、「北ノ丸」が続き、それらをひっくるめて「二ノ丸」と呼んでいるようです。 中ノ丸から西側の曲輪には直接行けない構造のようですが、西側への行き方が不明だったので引き返す事にします。
本丸は後回しにして、先に本丸の北側にある曲輪を散策する事にします。
北側の中ノ丸
北側の中ノ丸は本丸と同じくらいの広い曲輪です。
曲輪は何段かに分割されているようです。
新高山城・釣井の段
上下2段で構成される釣井の段は東西、南北 50m ある、新高山城で最大の曲輪です。
曲輪の上段には4ヶ所、下段には2ヶ所の井戸があります。
石積みの大きな井戸で、中には水が溜まってました。
曲輪の端の方には石垣跡も残っていました。 では、引き返して本丸に登る事にします。
本丸
この丘のような場所が本丸跡です。
周辺には大きな石材が散乱している事から、石垣造りの曲輪だったと思われます。
かなり大きな石材も転がっているので、立派な石垣だったのかと思います。
右側にある階段からのぼりますが、その先が昔は枡形虎口だったようです。
登ってみると、かなり広い曲輪でした。
詰ノ丸
本丸奥に一段高い場所があり、そこが詰ノ丸で、天守的な櫓があったようです。
現在は石仏が並び、信仰の場となっているようです。
眺めが良いのですが、少し先が崖になっています。
物を落としたら回収できるとは思えない場所で、正直、怖かったです。
音声案内があったので、この風景を眺めながら案内を聞いてました。
下山したら観光協会の方が駐車場に来ており、登城証明として新高山城カードをもらいました。
土日祝日に不定期で配布しているようです。 ちょっとラッキーでした。
本郷生涯学習センターで続100名城のスタンプを押した後、新高山城の引っ越し先である三原城に向かいます。
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