徳島県 一宮城(1) ― 2024年05月03日
一宮城は、徳島県徳島市一宮町にある中世の山城です。
1338年に小笠原長宗によって築城されました。 長宗は後に一宮氏と称し、一宮城は代々、一宮氏が城主になります。 後に、一宮氏は細川氏の家臣となり、阿波の支配が三好氏の移ると、三好氏の重臣となります。
三好氏の傀儡として実権が無かった細川真之が勝瑞城を出奔すると一宮成相(小笠原成助)らが加勢し、勝瑞城の三好長治を自害に追い込みます。
しかし、長治方の反撃に合い、成相は長宗我部氏を頼ります。 この事が長宗我部氏が阿波に進出するきっかけになったのかも知れません。 1582年、長宗我部氏が阿波を平定しすると、謀反の疑いがあった一宮は誅殺され一宮氏が滅びます。
1585年、豊臣秀吉の四国攻めで一宮城は開城、一宮城は蜂須賀家政の居城となり、1586年に徳島城に移った後も重要な拠点として使用されますが、一国一城令により 1638年に廃城となります。
一宮城駐車場
県道 21号沿いにある駐車場です。 バイクはここに停めました。
そこそこの広さがあり、朝 8:00 なのでガラガラでした。
一宮城の登山口はすぐ側です。
続 100名城のスタンプは登山口に置かれています。
一宮神社
かなり古い神社のようですが、一宮城の隣にあった事から戦国時代には焼けてしまったようです。 江戸時代初期に蜂須賀氏によって再興されたようですが、再興したのが何代目の藩主なのかは情報がバラバラで分からなかったです...。
本殿で参拝した後に登山口から登城を開始します。
登山道の麓の方は階段状に整備されてました。 登山道は全体的に良く整備されており、登りやすかったです。
今回は倉庫跡がある方から登り、陰滝の方に下山する感じで、一宮城の登山道を一周する感じで歩く事にします。
登山口から本丸までは、約 650m です。
竪堀
倉庫跡付近にあった竪堀跡。
臨場感が綱割らない写真ですが、この遊歩道のように見える道のような物は、崖下に向かって伸びている竪堀です。
倉庫跡
一宮城には2つの倉庫跡が見つかっており、ここはその中の一つです。
戦の時に焼失したようで、雨が降ると炭化した麦が出土する事から「ヤケムギ」とも呼ばれているようです。
曲輪跡
倉庫跡は行き止まりなので、登山道に戻り少し進むと、右上に、いかにも曲輪と思える場所が見えてきます。
登城路に沿うように配置された曲輪で、曲輪からは登ってくる敵が丸見えです。 ここから攻撃されると攻め手も苦労したと思います。
さらに登ると山の稜線が見えてきました。
恐らく、正面に見えるのが才蔵丸で、右側が明神丸でしょう...。
ここは、2つの大きな曲輪の間を歩く事になり、かなり危険な場所です。
才蔵丸と明神丸を分断する大きな堀切です。
人工的に尾根を掘削して分断する訳ですが、大きな堀切を見ると、毎回、当時の人の生きる為の執念のような物を感じますね...。
才蔵丸
多分、「才蔵」は、ここを守っていた武将の名前でしょう。 ここと明神丸で登って来る敵を挟撃する仕組みだと思います。
才蔵丸は東西に細長く伸びた曲輪です。 また、南東側の登ってきやすい尾根には階段状にっ曲輪が並ぶ構造になています。
才蔵丸と明神丸の間付近の竪堀
明神丸
明神丸の周辺は帯曲輪で囲まれており、1ヶ所だけ虎口がある構造になります。
こちらの名前の由来は良く分かりません。 想像ですが、小笠原長宗が築城した時、一宮神社の分霊を城内に奉祀したとの話もあるので、それに関連する社などがあったのかも知れません。
明神丸からは、北側の眺めが凄く良いです。 ここから監視とかもしてたのでしょう。
本丸と明神丸を結ぶ帯曲輪です。
ここを堀切にして曲輪を分断した方が良さそうな印象を受けますが、本丸と明神丸で相互に応援を送り合う考えだったのかも知れません。
どちらにしろ、ここが敵に取られると、かなりまずい状況になると思います。
この先が本丸になります。
続きは次回へ...。
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