三重県 赤木城 ― 2024年08月10日
赤木城は、三重県熊野市にある続 100名城の一つです。
1586年に熊野の地侍たちが決起して天正の北山一揆が発生しました。 一揆が発生した原因は、太閤検地への抵抗と考えられています。
赤木城は、一揆を鎮圧する拠点として 1589年頃に築城されたと推定されています。
縄張したのは、当時この地を治めていた豊臣秀長の家臣、藤堂高虎のようです。 赤木城は、1615年の一国一城令によって廃城となります。
道の駅 板屋九郎兵衛の里
続 100名城のスタンプが置かれている場所です。
ここでスタンプを押した後、丁度、お昼時に到着したので昼食用のパンを購入してから赤木城に行く事にしました。
赤木城駐車場
スタンプが置かれている道の駅から赤木城へは、思ったよりも距離がありました。
見学用の駐車場も整備されていたのでバイクを停める場所には困らなかったです。
それほど広い駐車場ではありませんが、満車になるほど人が来る場所だとも思えないので十分な広さだと思います。
鍛冶屋敷跡
駐車場から 1段上がった場所にある曲輪です。
発掘調査により、ピットや土坑、焼土が見つかっています。
「鍛冶屋敷」と言う地名が残っている事からも、「鍛冶」に関係する設備があったのでしょう。
この城は一揆を鎮圧する為に築かれた「戦う」城なので、武器の修理とかもやっていたのかも知れません。
登城路を進みます。
赤木城は平山城なので、それほどの高低差はありません。
主郭を中心に3つの尾根と裾野に郭を配置した構造になります。
この先に東郭の入り口となる虎口があります。
東郭2の石垣
北山一揆を鎮圧する為に築かれた城であるとしたら、築城には時間をかけている余裕はなかったように思えます。 土の城かと思ったのですが、意外にも石垣で築かれた城でした。
1586年に発生した北山一揆は、その時の内には概ね収束していたようなので、どうやら赤木城を築城した頃には既に一揆は鎮圧されていたようです。 どちらかと言うと、防御と言うより、一揆の関係者を処罰する拠点のような存在だったのかも知れないですね...。
東郭虎口
東郭の入り口となる虎口です。
ここには門があったようで、東郭は門を挟んで2つの郭で構成されていました。
2 つの礎石が残されており、間口8尺(約 240cm)、奥行 6尺(約 180cm)の四脚門だったと考えられています。
石垣は野面積みで、石垣の角の算木積も少し荒い感じがします。
東郭1
主郭への虎口上段から東郭1側を眺めた所。
1614年に領主の浅野氏が大阪冬の陣に出陣した時、隙を狙って一揆が再発しています。
しかし、この時の一揆も鎮圧され、160人が田平子峠で処刑されています。
赤木城は城として機能していた期間は短いですが、なかり血生臭い歴史を持つ城です。
主郭への虎口
虎口が上下段になっており、また、通路も折り返している複雑な構造の虎口です。
現在は後から取り付けた階段によって上段虎口に登る事が出来ますが、当時も階段で上段に登っていたようです。 ちょっと変わった構造ですね...。 多分、門とかもあったのでしょう。
虎口の石垣は、激しく崩落していたようで、廃城時に意図的に崩された可能性もあるようです。
主郭虎口
次に現れたのが主郭の虎口です。
虎口は内枡形のような構造になっているので、門や塀などがあったのかも知れませんね...。
東郭から主郭への登城路は、非常に見応えがあります。
主郭
赤木城で一番大きな郭です。
周辺の石垣は高さ 4m あります。 ほぼ正方形ですが、横矢掛かりが設置されており、各辺は一直線ではありません。 急ごしらえの印象がありますが、色々と工夫が凝らされています。
主郭からから見つかった礎石は、他の郭で見つかった物よりも大きい事から、立派な建物があったと考えられています。 このに、赤木城の中枢となる建物があったのでしょう。
他、主郭からは、播磨で作られた焙烙(土鍋の一種)も見つかっているようです。
主郭から西郭側を見下ろした所。
城下から主郭への高低差は 30m ほどあるようです。
それにしても素晴らしい眺めです。 駐車場からそれほど登った感じは無かったのですが、かなりの高低差があります。
主郭の石垣です。
石垣の下が犬走のようになっているので、主郭周辺を見学する事が可能です。
でも、幅が狭い場所もあるので、雨が降っている時などは注意した方が良さそうです。
北郭
写真は主郭から眺めた所ですが、下に降りる事も可能です。
北側にはこの郭一つしかありませんが、その先い堀切があります。 ただ、先端まで行ってみましたが堀切は見えませんでした。
郭周辺に土塁のような痕跡も見えなかったので、北側から攻撃される事はあまり想定していないのかも知れません。
西郭1
主郭の石垣を一周して西郭の方に下りてきました。
下の方に見える、四角い郭が西郭1です。 西郭1からは2棟の礎石建物跡と水溜跡が見つかっています。 建物は西郭1の大半を占める、それなりの大きさの物です。
多分、これが方形石積遺構だと思います。
水溜とは、これの事でしょう。
そう言えば、ここまで城には重要な施設となる井戸跡が無かったですね...。
西郭2
写真は西郭1の先端から西郭2を見下ろした所です。
結構な落差があります。
単に、発掘調査されて無いだけかも知れませんが、今の所、西郭2から建物跡は見つかって無さそうです。
西郭2から、西郭1郭の石垣を眺めた所です。
西郭1郭自体が結構、高い場所にあり、その上に石垣を築く事により高低差を生み出しているようです。 赤木城の石垣は全て野面積みですね...。
西郭3、4
この写真からは分かりにくいですが、2段の郭に分割されています。
それほど広くは無く、建物とかあったのでしょうか?
西郭4から見上げると、辛うじて2段構造になっている事が分ります。
恐らく、一段高い場所にある狭い空間が西郭3で、その上の石垣は西郭2の物です。
土塁の存在も感じ無いので周辺を塀で囲っていた感じでしょうか?
西郭4の石垣です。
石垣は全体的に修復されているのかも知れませんが、当時の姿をイメージしやすいです。
赤木城は戦の詰城のような物だと思っていたのですが、石垣造りの屈強な城だったようです。
南郭3
西郭から遊歩道を歩いてさらに下ると南郭が見えてきました。
南郭は1~3の3段になっており、写真は一番下の南郭3です。
南郭3からは建物跡や、かまど跡が見つかっています。 言い伝えでは、かまどは4つあったようです。 こちらの方は、生活空間的な場所だったのかも知れませんね...。
南郭1、2
南郭3の一段上にある南郭2と、さらにその上にある南郭1です。
南郭1は非常に狭い郭ですが、礎石建物があったようです。
南郭から駐車場には歩道道路を登って戻ります。
周辺の棚田を眺めながら駐車場に戻りました。
良い城でした。
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