和歌山県 新宮城2024年08月11日

新宮城は和歌山県新宮市にある続 100名城の一つです。
1600年、和歌山城主浅野幸長が家老の浅野忠吉に新宮を分知し、翌年から築城を開始したのが新宮城です。
新宮城は 1614年の北山一揆の時に攻められますが一揆勢を撃退しています。 その後、一揆に加担した者は捕らえられ、前日訪問した赤木城近くの田平子峠で処刑されています。
1615年の一国一城令で一度廃城になりますが、幕府の許可を得て、1618年から築城を再開します。 1619年に浅野氏が三原に移封になり、水野重仲が新宮に入ります。 福島正則が改易になった後、三原城に浅野氏が入りますが、ここと話が繋がっていたようですね...。
なお、幕末まで水野氏の統治が続きます。

駐車場
新宮城跡前バス停付近の入り口から入った先に駐車場があります。
今回はホテルから新宮城まで歩いて数分の距離だったので歩いて見学する事にしました。
人がいない朝 5時に早起きして訪問すると駐車場はガラガラでした。
新宮城・駐車場

駐車場からこの階段を登ると天守台の下に出れます。
現在、新宮城は「丹鶴城公園」として管理されています。 元々、源為義の娘である丹鶴姫の住まいがあった事から「丹鶴城」とも呼ばれているようです。
1954年には新宮城の敷地で旅館が営業していたようで、その後、新宮市が買い取って現在のように公園として整備したようです。 なので、この階段は旅館か公園として整備した時に造られた物かも知れません。
新宮城・遊歩道


本丸の石垣と川上不白の顕彰碑
石垣は一直線では無く、少し出っ張りがあります。 その部分が横矢掛で、石垣に群がる敵を横から攻撃する事が出来ます。 江戸時代に入ってからの城なので、石垣の石材も綺麗に加工されています。
下に見える石碑は川上不白の顕彰碑です。 不白は新宮藩の水野氏の家臣の家系ですが、表千家の如心斎に弟子入りし、江戸千家を開た茶人です。
新宮城・川上不白の顕彰碑

天守台
新宮城の天守台は 1945年に崩落しているようです。
その事からも、多分、一番高い場所にある少し崩れた感じのする石垣が天守があった場所だと思います。
天守は三層五階と推定されていますが、何か資料が残っていたのでしょうか?
なお、新宮城の建物は明治の廃城令で払下げられ、1875年には建物は残って無かったようです。 石垣を見ると、後付けしたような遊歩道があり、後から少し手が入れられているように思えます。
新宮城・天守台付近

新宮城・天守台付近

新宮城・天守台

本丸
本丸の周辺は多門櫓で囲まれていたようです。
本丸の周辺の石垣が綺麗に整備されてますが、これは公園として整備した時の物だと思います。 本丸の四隅には櫓があったようで、かなり立派な本丸です。
新宮藩は水野氏の代でも 3万5千石なので、財政的にそれほど余裕があったように思えません。 また、新宮城は何度も地震の被害を受けているので、城を維持するのは大変だったと思います。
新宮城・本丸

新宮城・本丸

本丸搦手口
こちらは本丸の搦手口で、現在は通行する事が出来ません。
普通に考えると、この付近に門があったのでしょう。 周辺の多門櫓と連結していたのかな?
新宮城・本丸搦手口

丹鶴姫之碑
12世紀頃、丹鶴姫は新宮城があった場所に東仙寺を建立しました。
東仙寺と香林寺は新宮城を築城する時に別の場所に移されています。
新宮城・丹鶴姫之碑

朝日が見えます。
すこぐ蚊が多く、虫除けスプレーをしないで来た事を後悔しました...。
公園レベルの平山城なので、蚊はそれほどいないと思ってました。
何か所か蚊に刺されてしまった..。
新宮城・朝日

本丸からの眺めです。
大きな川は熊野川で、赤い橋が熊野大橋です。
朝日に照らされている感じが良いです。
新宮城・本丸からの眺め

本丸虎口
こっちが大手口の虎口だと思います。
細長い内枡形のような構造になっており、本丸渡櫓門があったようなのですが、具体的にどの場所にあったのかは分かりませんでした。
この辺りの石垣は綺麗な切込ハギで、この辺りの石垣の上に櫓門があったのでしょう..。
新宮城・本丸虎口

新宮城・本丸虎口

新宮城・本丸虎口

出丸
本丸周辺の犬走のような細い場所を通ると出丸に行けるのですが通行止めになってました。
足元が不安定になっているのかも知れません。
城だった頃は出丸と本丸が橋で繋がっていたようです。 今は本丸からの橋も無く、本丸周辺の道も通行止めなので、出丸に行く事は出来ないようです。
なお、出丸には櫓があったようです。
新宮城・出丸

新宮城・出丸

本丸の下まで戻ってきました。
鐘ノ丸、松ノ丸を通って下に降りる事にします。
上の建物はトイレなので、新宮城とは関係ありません。
新宮城・本丸の石垣

鐘ノ丸東門
門の正確な場所は分かりませんが、石垣の雰囲気から勝手にこの辺りだろうと推測しました。
ただ、この辺りは旅館を営業していた頃に手が入ってる可能性があるので、何とも言えませんが...。
新宮城・鐘ノ丸東門

鐘ノ丸
鐘ノ丸周辺の石垣が見れる場所が無かったです。 ただ、駐車場から登って来た時の階段横の石垣が鐘ノ丸の石垣だと思います。 綺麗な打込みハギです。
結構広い曲輪なので、ここにあった旅館は結構立派な物だったのかも知れません。
鐘ノ丸の西北、西南、南に隅櫓がありました。
ここを「二ノ丸」と記してる場合もあるので、浅野氏と水野氏の時代で呼び名が変わっているのかも知れませんね...。
新宮城・鐘ノ丸の石垣

新宮城・鐘ノ丸

鐘ノ丸渡櫓門
ここが松ノ丸と鐘ノ丸を繋ぐ枡形虎口です。
ここに櫓門があったようです。 多分、周辺の多門櫓と繋がっていたのでしょう..。
新宮城・鐘ノ丸渡櫓門

新宮城・鐘ノ丸渡櫓門

虎口を通って松ノ丸に入って一番ビックリしたのが、このコンクリートの塊です..。
鐘ノ丸の石垣の角の方にあり、石垣をこのように修復した例を見た事が無いので、旅館時代に何かしらの設備を置く為に石垣を崩したのかも知れません。
もう少し、なんとかしてあげられないでしょうか...。
新宮城・鐘ノ丸の石垣

松ノ丸
ここも旅館の一部として使用されていたようなので、変わってしまってる場所がありそうです。
こちらも三ノ丸と記してる場合があるので、時代によって呼び名が変わったのかも知れません。 1707年の大地震では新宮城の石垣にも大きな被害が出たようで、翌年、幕府は本丸、二ノ丸、三ノ丸、南曲輪の石垣修復工事を許可しています。
松ノ丸から水ノ手に降りれるのですが、登り直すのも面倒だし、とにかく蚊がすごくて止めました。 早くこの場を離れたい...。
新宮城・松ノ丸

松ノ丸西門
立派な枡形虎口です。 ここにも門があったようです。
大手道を登って来ると、ここを通って松ノ丸、鐘ノ丸を通って本丸に入ります。
新宮城・松ノ丸西門

新宮城・松ノ丸西門

大手道
松ノ丸西門から大手道を下って来た所です。
ここで大手道が直角に曲がっています。 ここまでの大手道は当時と同じだと思います。
現在はここを直角に曲がった後、真っすぐ進みますが、当時の大手道は右奥の階段手前を右に曲がって下っていたようです。 ただ、現在は当時の大手道を通る事は出来ないようです。
新宮城・大手道

南曲輪
新宮城を出て右に進むと隣にある正明保育園の石垣が見えます。
ここは南曲輪だった場所で、政庁としての重要な建物があった場所でした。
多分、石垣は当時のままだと思います。
新宮城・南曲輪

さて、ホテルに戻って朝食をとってから出かける事にしましょう...。
この後、新宮市立歴史民俗資料館で、続 100名城のスタンプを押しました。


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