愛媛県 河後森城(1)2024年05月04日

河後森城は、愛媛県北宇和郡にある山城で、続 100名城の一つです。
築城年代、築城者ともに不明な城です。 永禄年間(1558 ~ 1570年)に土佐一条氏から養子に入った河原淵教忠が城主になった記録が文献資料としては一番古そうです。
情報が少ないのですが、この城は 1584年頃には長宗我部氏の配下になっていたようです。
豊臣秀吉が四国を平定した後は、小早川氏、戸田氏、藤堂氏、富田氏へと所領が移り、城代が置かれていたようです。
1614年に伊達秀宗が宇和島藩を設立すると、付家老の桑折景頼が河後森城を住居としていたようですが、1615年の一国一城令で廃城になります。

風呂ヶ谷駐車場
思ったよりも広い駐車場でした。
駐車場に河後森城の散策マップが置かれていたので、それを片手に散策する事にします。
他に数人いましたが、城の散策というより自然観察的な目的の方が多かったように思えます。
また、河後森城には地元の小学生が作成した案内板があり、楽しく見学する事ができました。
河後森城・風呂ヶ谷駐車場

井戸
深さは 2m、広さは 4㎡ あります。
奥の山側の岩盤を削り、草で分かりにくいですが、手前の方に石を積んで水を堰き止めている感じです。 井戸と言うよりも、小さな溜池に近いのかも知れません。
河後森城・井戸

登城路はこんな感じの山道です。
それなりの山道なので、天気が良くて助かりました。
続 100名城のスタンプはこの先の西第十曲輪なので、雨が降られたらスタンプを押すのも大変だったかも知れません。
河後森城・登城路

西第十曲輪の虎口
城だった頃はもっと急だったようで、道幅は 2m ありました。 東側には雨水を流す為の側溝もあったようです。 門柱の柱穴が発掘調査により見つかっており、棟門が復元されてました。
登城路の両脇は土塁になっており、ここを通る敵を西第十曲輪側から狙い撃ちする構造のようです。
河後森城・西第十曲輪の虎口

西第十曲輪
ここからは2棟の掘立柱建物跡が見つかっています。 2つの建物は距離が近すぎる事から、短期間のうちに建て替えられたと考えられているようです。
一つは馬屋と思われる建物で、当時の掘立柱建物が再現されていました。 続 100名城のスタンプはこの建物に置かれています。
河後森城は山の地形を利用している為に「コ」の字型をしており、西第十曲輪は西側の先端部分にある曲輪です。 周辺には何か所も竪堀が掘られています。
河後森城・西第十曲輪

河後森城・西第十曲輪

馬屋の馬が紙で再現されてました。
宇和島城との比較や、山瀬城との関係性など、子供たちが作成した資料も良かったです。 堅苦しく無い、手作り感のある展示も良いですね。
河後森城・西第十曲輪

曲輪の周辺は土塁で囲まれてました。 現在の土塁は復元のようです。 奥の方で土塁が途切れてますが、整備の様子を残す為に断ち切ったようで、城だった頃の土塁は繋がってました。 南側土塁の内側には多門櫓があったようで、柱穴が発掘調査で見つかっています。
土塁の高さは 90cm 程度あったようで、外からは建物の下半分は土塁で見えなかったと思います。
河後森城・西第十曲輪

先程の土塁が途切れている場所から下を眺めた所です。
結構、下の方が曲輪のようになっています。
年代の違う堀切跡が見つかっており、1棟の掘立柱建物跡も見つかっています。
河後森城・西第十曲輪、堀切状遺構

西第七~九曲輪
本郭から、ここ第十曲輪までは連続した段曲輪が連なります。 これから段曲輪を登って本郭に向かいます。
下の小さな階段の上が西第九曲輪で、長い階段の右側にある盛り上がった場所が西第八曲輪です。 そして、長い階段を登った先が西第七曲輪です。
階段が無ければ登るのは大変ですね...。
河後森城・西第七~九曲輪

似た様な曲輪が続くので、断言はできないのですが、多分、手前に見えているのが西第七曲輪で、奥に見えるのが先ほど見学していた西第十曲輪です。
階段状に曲輪が続くので、下から攻めてくる敵は良く見えますね...。
河後森城・西第七~十曲輪

西第六曲輪
こちらも「多分」ですが、目の前の高台が西第六曲輪だと思います。
曲輪間は結構な落差があり、見学用の遊歩道は段曲輪の横を登っていく感じです。
河後森城・西第六曲輪

写真中央に見えるのが西第六曲輪で、右手前の一段高い所が西第五曲輪です。
曲輪横の道を登って来ましたが、城だった頃はこんな道は無かったかも知れません。
しかし、階段の曲輪が非常に美しいです。 これだけ綺麗に段曲輪の様子が見て取れるのも珍しいかも知れません。
河後森城・西第五~六曲輪

遊歩道から西第五曲輪に入って下を眺めた所です。
奥に見える一段低い所が西第六曲輪です。
だいたい同じような規模感の曲輪が階段状に続きます。 城だった頃は、この曲輪をどうやって登ったのでしょうか?
河後森城・西第五~六曲輪

西第五曲輪から、山の上の方を眺めます。
一段高い所が西第四曲輪で、西第三曲輪へと連なっている所が見えます。
保存状態も良く、美しい山城ですね...。
河後森城・西第四曲輪

西第四曲輪
だいぶ上の方まで登ってきました。
この辺りまで登ってくると、曲輪が少し小さくなってきました。
曲輪間の落差もだいぶ低くなってきた感じがします。
河後森城・西第四曲輪

西第三曲輪
山の下の方を眺めた場合、西第四曲輪と区別が付かないような場所です。
但し、山の方を見ると、西第ニ曲輪と間に大きな堀切があります。
河後森城・西第三曲輪

堀切
西第三曲輪と西第ニ曲輪の間にある堀切です。
山城の宿命ですが、だいぶ崩落が進んでるようで、土嚢で補強されてました。
長さ 17m、幅 1.3 ~ 2.2m、深さ 1.3m ~ 1.8m ある堀切です。
土嚢による補強によって、当時の幅よりは狭くなっていると思います。 堀切の底は平で、通路として使われていた可能性があるようです。
河後森城・堀切

河後森城・堀切

この先が西第二曲輪になりすが、続きは次回