高知県 岡豊城 ― 2024年05月03日
岡豊城は高知県南国市にある山城で、続 100名城の一つです。
土佐七雄(長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏)と呼ばれていた有力国人、長宗我部氏によって岡豊城が築城されたと考えられていますが、正確な築城年代は不明なようです。 築城は南北朝時代初期の 14世紀頃と推定されています。
1508年に土佐七雄の抗争が始まると岡豊城は落城します。 この頃の長宗我部氏は土佐七雄の中でもそれほどの勢力を持ってませんでした。
どのように城主に復帰したのかは諸説あるようですが、1518年に長宗我部国親が岡豊城の城主に復帰し、国親は土佐の有力大名へと成長します。 国親から家督を譲られた元親はさらに勢力を拡大し、1585年には四国を平定します。
1591年頃に拠点を浦戸城に移し、その後、岡豊城は廃城になります。
高知県立歴史民俗資料館 駐輪場
バイクは続 100名城のスタンプが置かれている高知県立歴史民俗資料館の駐輪場に停めました。 写真では、かなり傾いてるように見えますが、実際に傾いているので大型のバイクは停めるのが怖かったです...。 もう少し平にしてもらえると助かるのですが...。
高知県立歴史民俗資料館
ここに続 100名城のスタンプが置かれてます。
先に資料館を見学してから岡豊城を散策する事にします。
御幣
高知県立歴史民俗資料館の展示物で、特に気になったのがこの御幣です。
一見すると呪物のような怖さもあり、逆に表情がユーモラスにも感じます。
これらは、高知県香美市の物部地区に伝わる「いざなぎ流」で用いられる「御幣」と呼ばれる物で、この「御幣」に神霊を宿らせるそうです。
「いざなぎ流」には人の負の感情に起因する「呪詛」の概念があり、人の無意識な感覚として「怖さ」や「不気味さ」を感じるのかも知れません。
長宗我部元親像
若い事の姿が凛々しいです。 高齢な頃の肖像画しか見た事が無いですが...。
元親の初陣は 22歳とされているので、当時としてはかなり遅い初陣だったと思います。 幼少期は気弱な性格だったようです。 しかし、初陣で何かのスイッチが入ったのか、鬼に豹変して敵を倒していたようです。 元親はその後、四国を統一します。
しかし、戸次川の戦いで嫡男の信親が討死にすると状況が一変します。 家督相続を強行したり、反対する家臣を粛正するなど悪手を打ちます。 戦国武将とは言え、人としての脆さを感じます。
では、岡豊城の散策を開始します。
遊歩道がちゃんと整備されているので、楽に散策出来ました。
とは言え山城なので、それなりのアップダウンはあります。
二ノ段
長さ 45m、最大幅 20m の曲輪で、三角形をしています。
曲輪の周辺を見ると、土塁の跡らしき痕跡が残っていました。 城だった頃の土塁は幅 3m、高さ 1m もある立派な物だった事が発掘調査により判明しています。
建物跡などは見つかって無いようですが、陶磁器などが出土しているようです。
二ノ段は詰などから運ばれた土によって作られたとの事なので、もしかしたら、山を削ったというよりも谷を埋め立てた場所なのかも知れません。
堀切
二ノ段と詰を分断する為に作られた堀切です。
堀切の中央には井戸が掘られており、堀切の中で四角形にへこんでる場所が井戸跡だと思います。 井戸は重要な施設なので、変わった場所にあるなと思ったのですが、井戸を深く掘るのが大変だったのかも知れませんね...。
岡豊城の堀切は何か所かありますが、どこも幅が 3 ~ 4m、深さは 2m ほどあります。
詰下段
二ノ段から詰下段に来ました。 詰下段は詰の東側にある小さな曲輪で、詰と二ノ段の中間にあります。 この曲輪からは、1棟の礎石建物跡と土塁跡が見つかっています。
見つかった建物跡は 2間 × 5間(5.8m × 9.2m)の大きさなので、比較的大きな建物だったようです。 詰下段から三ノ段を経由して詰に行く事にします。
三ノ段(南側)
三ノ段は詰を囲むように配置された帯曲輪です。
帯曲輪は詰の南側と西側にあり、幅 4m、長さ 45m ほどあります。
詰下段から入れる南側からは特に建物跡は見つかって無いようです。
三ノ段からは、眺めも良好です。
国分川と、川を渡る国道 32号が見えます。
ここが三ノ段(南側)の分岐地点です。
ここを左に下ると四ノ段、奥に進むと三ノ段(西側)、階段を登ると詰に出ます。
先に階段を上がって詰を見学する事にします。
詰
詰岡豊城の中心的な曲輪で、一般的には本丸と呼ばれている場所です。
この曲輪も三角形をしており、一辺が 40m ほどあります。 ここからは礎石建物跡の他、地鎮(築城の時、土地の神を鎮める儀式)で使われたと思われる渡来銭が見つかっています。
また、「天正三年」(1575年)の年号がある瓦なども出土しています。
詰で見つかった、礎石建物跡です。
発見された建物は 2棟で、大きさは、それぞれ 10.4m × 7.2m と、1.4m × 2m です。
この 2棟の建物は石敷遺構で繋がっています。 この大きな建物は2層以上の構造だったと推定されています。
詰の周辺には土塁跡も残っており、多分、当時はもっと大きな土塁だったのだと思います。
三ノ段(西側)
詰から三ノ段(西側)に降りると、礎石建物跡が見えてきます。
三ノ段からは 1棟の礎石建物跡が見つかっており、南北に 18.9m、北部分の幅が 8.6m、南部分の幅が 6.2m ありました。 また、建物の中央部には詰への通路となる階段跡も見つかっています。 周辺の土塁の内側は石積になっており、ここは他の曲輪と少し雰囲気が異なります。
四ノ段(北側)
三ノ段を囲むように四ノ段が配置されており、四ノ段は中央の虎口で2つに分断されています。 ここは四ノ段の北側にある曲輪で、今までの曲輪と比べるとそれほど大きな曲輪ではありません。 広さは 12m × 15m 程度の広さです。
曲輪周辺には土塁跡が残っており、礎石建物跡も 1棟見つかっています。
こちらは四ノ段の北側虎口を下から眺めた所です。
だいぶ埋まっていて分かりにくいですが、曲輪の周辺が空堀で囲まれています。
空堀の堀底はV字型で、当時の深さは 2.5m 以上もありました。
四ノ段の虎口
四ノ段を分断している虎口です。
虎口の周辺には石垣のような物が見えます。 岡豊城は「土の城」のイメージが強かったのですが、石垣造りの城だったのでしょうか?
ここは交差点のような場所で、こちらは四ノ段から外側に出る側の虎口です。
四ノ段(南側)
先ほどの虎口の先にある四ノ段の南側です。
こちらは南北 32m、東西 16m の広さがある、細長い感じの曲輪です。
結構、広い曲輪なのですが、こちらからは建物跡は見つかって無いようです。
伝厩跡曲輪
ここは、岡豊城の出城だった場所です。
広さは 30m × 17m の楕円形で、周辺は急な斜面で囲まれており、随所に竪堀が配置されています。
ここは、詰から少し離れた場所にあり、ここまで見学に来るのは少し面倒かも知れません。
岡豊城の散策はここまでです。 だいぶ駐車場から離れた場所まで来たので引き返す事にしましょう...。
土佐の山村民家
帰る前に、駐車場に行く途中で見かけた古民家に立ち寄ります。
この建物は愛媛県と境を接する山村東津野村から移築した古民家で、高知県立歴史民俗資料館の展示物の一つです。 移築時に解体した時、柱の墨書から 1832年頃には存在していた事が判明しています。
案内をちゃんと読まなかったのですが、中に入って見学可能だったようですが、扉が閉まっていたので中に入れる事に気が付きませんでした...。
勇猛果敢な戦国武将だった長宗我部元親も良いですが、嫡男信親を亡くしてから落胆してしまう元親も人間味があって好感が持てます。
戦国武将は無慈悲なイメージがありますが、やはり普通の人間だったのだと感じます..。
最近のコメント