水戸城跡(弘道館・偕楽園) ― 2014年09月15日
100名城めぐり、水戸城跡。
築城は平安末期 1190 ~ 1198 年頃と言われ、大掾(だいじょう)氏の居城として使用されました。 大掾氏は馬場氏とも呼ばれたそうです。
室町時代には江戸氏に支配が移りましたが、秀吉の小田原攻めの際に北条側に付いた為、佐竹氏に攻められ支配が移りました。
その後、徳川の時代に移り、水戸徳川家の居城となります。
大手門跡、大手橋
城郭跡は街中に溶け込んでしまい、注意して観ないと気が付かなそうな感じです。 大手門跡、大手橋も弘道館前で説明書きが無ければ気が付かないかも知れません。 当時の物は土塁くらいかも知れません。
弘道館
弘道館は、水戸藩九代藩主・徳川斉昭によって作られた藩校です。
幕末には天狗党の乱が発生、弘道館に立て籠もる諸生党との間で激しい戦闘が行われました。 その際、多くの建物が消失しています。 ちなみに、100名城のスタンプは、ここの受付にあります。
下の写真は正門になります。 特別な場合のみ開門されたそうです。
弘道館・正庁玄関
正庁は、藩主立会いのもと行われる試験や儀式などに使用されました。
弘道館・諸役会所
玄関から入った所にあり、来館者の控えの間になります。 奥の掛け軸は藩医であった松延年によって書かれた物です。
建物は非常によく保存されていますが、東日本大震災の時には壁の剥落やひび割れなど、かなりの損害があったそうです。 復旧作業は平成23年3月から開始し、平成26年3月に完了しました。
弘道館・湯殿
お風呂場になります。 中央に溝があり、そこに向かってゆるく傾斜しています。 流れた水が溝に流れる構造になっています。
弘道館・至善堂
正庁の奥にあるのが至善堂。 至善堂は藩主の休憩所として使用されました。 写真は御座の間。 徳川慶喜は大政奉還後、至善堂で謹慎生活を送りました。
常磐神社本殿
時間が余ったので、偕楽園まで脚を伸ばしてみました。
常磐神社は偕楽園の手前にあります。 明治元年、義公(徳川光圀)、烈公(徳川斉昭)を慕う人々によって創立されました。 「常磐神社」の名称になったのは明治6年になってからだそうです。 義烈館には、光圀、斉昭に関係する資料などが展示されています。
常磐神社能舞台
常磐神社の建造物は戦災でほとんど焼けてしまいました。 唯一のこった神楽殿を改修したのがこの能舞台になります。
偕楽園の萩
9月中旬頃から萩が見頃になりますが、多少、はやかった様です。 「五分咲き」と言った感じでした。 ここの萩は徳川斉昭が偕楽園創設時に植えた物と伝えられています。
偕楽園・好文亭
好文亭も、斉昭が詩歌・管弦のために建てた物です。 建物は2層3階建で、中には配膳用の昇降機も設置されています。 各部屋は行燈で美しく照明されております。
by mz80 [茨城県] [旅行] [日本100名城] [コメント(0)|トラックバック(0)]
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