群馬県 旧富岡製糸場2016年09月23日

平成26年に世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」に登録された施設の一つです。
富岡製糸場は明治5年に官営の製糸工場として創業を開始しました。
外国人技師がいたせいか、当初は「西洋人に生き血を飲まれる」といった変なウワサが広がり、工女を集めるのに苦労したようです。
経営は明治26年からは三井家、明治35年からは原合名会社、昭和14年には片倉工業と合併、昭和62年まで操業しました。

バイクはP1宮本町駐車場に無料で停められましたが、駐車場前の道が一方通行なので、曲がる場所がわからずに少し苦労しました。

東置繭所
1階は事務所や作業場で、2階に繭を貯蔵していました。
木骨煉瓦造と言う、木の骨組みに煉瓦をはめ込むような構造で建てられており、煉瓦のみで積まれた場合よりも強度が高くなります。
富岡製糸場・東置繭所

富岡製糸場・東置繭所

富岡製糸場・東置繭所

富岡製糸場・東置繭所

富岡製糸場の初期の建物は「フランス積み」と呼ばれる手法で煉瓦が積まれています。 この方法は見た目は美しいのですが強度的には他の積み方に劣るそうです。 そのせいか、現存する「フランス積み」の建物は少なく、他では「猿島」の施設跡などが知られています。
富岡製糸場・東置繭所

東置繭所の1階は資料などが展示されており、2階も一部を見学する事ができます。 2階の長い廊下が印象的です。
富岡製糸場・東置繭所

富岡製糸場・東置繭所

繰糸場
繭から生糸を抜き取る作業場です。 操業当初はフランス式繰糸機が世界最大規模で設置されていました。
富岡製糸場・繰糸場

富岡製糸場・繰糸場

一番見たかった場所です。 機械を見ていると「ニッサン自動繰糸機」の文字が目に入りました。 「ニッサン」? あの「日産」?
調べてみると、戦時中に戦闘機「隼」を製造していた中島飛行機は「富士産業株式会社」に改称しますが占領軍によって解体されてしまいます。 その一つは現在の「富士重工(スバル)」へとつながります。 また「プリンス自動車」への別のれもあり、その「プリンス自動車」が自動車以外に自動繰糸機の製造も行っていたようです。 (「プリンス自動車」は「日産」と合併します。)
富岡製糸場・繰糸場

富岡製糸場・繰糸場

榛名寮
大正7年に建てれた女性従業員用の寮の一つです。
当時の女工たちの生活は充実していたようで、労働環境も、1日8時間労働(季節によって多少変化したようです。)や、日曜日の導入、年末年始、夏季休暇など、現代風で恵まれていたようです。
富岡製糸場・春名寮

寄宿舎
昭和15年に建てられた3代目の寄宿舎です。
富岡製糸場・寄宿舎

ブリュナ館
裏側から見た所で、左にあるのが榛名寮です。
明治6年にフランス人ブリュナ氏の住居として建てられました。
ブリュナ氏は家族と暮らしており、女工たちにとってブリュナ夫人の美しい装いは特別なものだったのかも知れません。
この建物はのちに、女工たちに読み書きを教える場所や、寄宿舎として使用されました。
富岡製糸場・ブリュナ館

診療所
昭和15年に建てられた3代目の診療所です。
官営時代では治療費、薬代は工場側が負担しており、労働環境としては充実していました。
富岡製糸場・診療所

煙突
昭和14年に建てられた鉄筋コンクリート製の煙突で、高さは37.5mあります。 明治時代にも高さ36mの鉄製煙突が建てられてましたが、暴風によって倒壊しました。
富岡製糸場・煙突

富岡製糸場は115年に渡って操業し続けました。
今は観光客しかいないこの場所で多くの人々が働いていた様子を想像すると、時間が止まっようなこの空間が幻想的でもあります。
富岡製糸場

富岡製糸場

現在、西置繭所は保存修復工事が行われており、工事の様子を見学する事もできます。


コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://hiros-info.asablo.jp/blog/2016/09/23/8207036/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。