石川県 金沢城(1) ― 2017年05月03日
1580年、織田信長の家臣、佐久間盛政が一向一揆の拠点であった金沢御堂を攻め落し、その地に築城したのが金沢城です。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れると佐久間盛政も斬首となり、1583年、前田利家が新たな城主として入城します。 以降、前田家の居城として使用されます。
バイクを兼六園周辺の駐輪場に停めて散策を開始します。 金沢城に来るのは5年ぶりで、当時は100名城のスタンプラリーを行ってなかったので、スタンプを押す為の再訪になります。
石川橋~石川門
兼六園側から向かう場合、この石川橋を渡って入城するのが一般的です。
石川橋は百閒掘と呼ばれる巨大な堀の上に架かる橋で、現在の橋は明治44年に建てられました。 今は堀底に道路が通ってますが、当時は大きな水堀だったようです。
左奥に見えるのは石川門を防御する石川櫓です。
現在の石川門は 1788年に再建された物です。
この石川門の枡形を形成している石垣が少し変わってます。
門の左右は美しい切り込みハギですが、門の向側の石垣は打ち込みハギで積まれてます。
これは、1765年の改修時に異なる技法で石垣を修復した事によるそうですが、どっちがその時の修理なんですかね...。 一般的には切り込みハギの方が年代的には新しいので、1765年に門を修理し、その時に石垣が切り込みハギになったのでしょうか?
石川櫓
石川門を守る石川櫓。 櫓と門はつながっており、内部を見学する事ができます。
五十間長屋
石川門を通って三之丸に入ると、圧倒的な存在感を放つ五十間長屋が目に入ります。
こちらも橋爪門と共に平成13年に復元された物です。
左側の橋爪門続櫓と、右側の菱櫓を繋ぐ石垣の上に五十間長屋が配置されています。
図面を見ると、両サイドの櫓の幅を合わせると 99.15m もある大きな建物なので、これを木造で復元するのは大変だったと思います。 二之丸側から内部に入る事もできます。
菱櫓
五十間櫓の北側に配置されている櫓で、名前の通り菱型をしています。
北側の石垣を見ると、石の加工状況が少し違っている感じがします。 上の方はかなり綺麗に表面が加工された石が使われていますが、下の方はもう少し荒い加工のように見えます。
近年の修理ではこのような事はしないと思うので、昔の修理跡かも知れません。
河北門
大手門からこの川北門を通って三之丸に入ります。 今では石川門の方が正門のように思えますが、三之丸への入り口としてはこちらが正門になります。
金沢城は明治14年に駐屯していた陸軍の失火により多くの建物を焼失しています。 ただ、河北門が撤去されたのは明治15年なので、撤去された理由に火災が関係しているのかは不明です。 現在の建物は当時の資料を参考に、平成22年に当時の技法で忠実に復元された物です。
河北門も桝形構造であり、こちらは外側の一の門となる高麗門です。
桝形もかなり忠実に再現されているようです。
橋爪門
建物全体が美しかったので、かなり引いた写真になってしまい、門の場所が解りにくいのですが、橋が架かっている場所が門の入り口になります。
橋爪門は二の丸への正門になります。 石川門、河北門、橋爪門で「三御門」と呼ばれているほど重要な場所になります。
橋爪門の桝形から見た所です。 橋爪門も明治14年の火災で焼失しており、右側の一の門は平成13年に、左側の二の門、および桝形は平成27年に 1809年の姿に復元された物です。 この美しい姿が戻ったのは、比較的最近の事のようです。
桝形を見下ろすようにある櫓が橋爪門続櫓で、五十間長屋と繋がっています。
橋爪門の二の門を内側から見た所です。
門の右側がちょっとした部屋のようになっており、ここに番所が置かれてました。
番所には急な階段があって櫓門の二階と繋がっていたようです。
裏口門跡
二之丸の内堀に沿って北側に回ると二之丸への入り口となる裏口門があります。
多分、北之丸から土橋門を通って二之丸に入る時の入り口として機能していたと思われますが、石垣以外は何も残されていません。 埋め立てにより、現在では内堀はここまでですが、当時はもう少し先まで内堀が続いていたようです。
切手門
裏口門跡から二之丸に入らずに、もう少し先に進むと切手門が現れます。
裏口門に近い場所にある為、場所的にかなり違和感を感じたのですが、移築した現存建物のようなので、実際の場所とは異なるようです。 地味な門ですが、貴重な現存建物です。
奥に旧第六旅団司令部の建物が見えます。
旧第六旅団司令部
明治に入ると金沢城は旧陸軍の駐屯地として使用されていた為、数寄屋敷があった場所には旧第六旅団司令部の建物が残されています。
明治31年に建てられた、ちょっと洋風の建物で、この頃の建物は味があって好きです。
司令部の側には数寄屋敷の石垣が残されています。
ここの石垣は、同じサイズに加工された石を積んだ綺麗な石垣です。 数寄屋敷とは、藩主の側室たちの住まいがあった所なので、見た目を重視したのかも知れません。
1631年頃に作られた物ですが、1661~1673年、1751~1764年、1808年に修復工事がされた記録が残っているようです。
石垣の石をよく見ると、作業分担を示す為に付けられた印が付いた物があります。
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