奈良県 高取城 ― 2017年10月07日
1332年の南北朝時代、大和高市一帯を治めた豪族、越智邦澄によって築城されたのが高取城の始まりとされています。 その頃はまた櫓も天守も無い状態だったようです。
一時廃城になりますが、信長の死後、筒井順慶によって再整備されますが伊賀国上野に移封、1585年に本多利久が入城すると本格的な築城が開始され天守などが建てられます。
明治6年に廃城になると、多くの建物は売却され、石垣のみが残ります。
高取城は、日本三大山城の一つです。
高取城の100名城スタンプは「夢創館」に置かれてますが、高取城からは結構、離れています。 また、この周辺は道路が細く、バイクを停めるのも難しいです。 少し離れた所の大通り脇に停めて、徒歩で「夢創館」に向かいました。
ここには高取城の地図なども置いてあるので、先に立ち寄ると良いかと思います。
当日は何かの祭だったらしく、山車が通ると通行止めになりそうだったので先を急ぎます。
こんな感じのカカシが町のあちらこちらに佇んでいて、普通の服を着ているせいか、遠くから見ると本当の人かと思いました。 近くで見れば、何てことはありませんが...。
県道 119号を登ると、壷阪口門の入り口付近に仮設トイレがあり、その周辺に数台停める事ができます。 また、行き止まり付近にも数台停める事ができるようです。
駐車スペースが限られているので、本丸付近まで車で登る場合には注意が必要そうです。
壷阪口門跡付近
しばらく山道を歩くと立派な石垣が見えてきました。
恐らく、この石垣の奥辺りが壷阪口門があった辺りだったのではと思います。
壷阪口中門へ向かう途中、結構長い階段がありました。
地面が見えませんが、階段の長さから察するに、中門の出前には結構な段差がありそうです。
壷阪口中門跡付近
この辺りにも門があったようです。 石垣が結構綺麗に残っているので、「夢創館」でもらった地図と見比べると当時の城の構造が良く解ります。
場所的に、恐らく三之丸と思われる石垣の角の部分です。
ちょっとハッキリしませんが、一応、算木積のように積まれてるようです。 ちょっと古そうな感じがする石垣ですが、結構な高さがあります。
大手門跡
「夢創館」でもらった地図を見るとこの辺りには櫓門が描かれています。
この辺りは石垣で厳重に囲まれており、重要な場所だったと思われます。 自然と同化しつつある、この門跡の先は三之丸になります。
十三間多門跡付近
この辺りが二之丸への入り口になる付近かと思います。
この辺りにも立派な櫓門があったと思います。 また、「十三間多門跡」の立て札がありますが、絵地図を見ると右側の石垣の上辺りでしょうか?
二之丸
なかなか広々とした二之丸です。 二之丸には御殿があったようですが、今は何も残ってません。 明治に廃城になるまでは城は存在していたはずなので、もう少し保護するとか出来なかったのでしょうか...。 急速に西洋化が進み、城郭のような日本式な建物が軽んじられていたのかも知れませんね...。 廃仏毀釈でも多くの寺を打ち壊しているので...。
十五間多門跡付近
この辺りに十五間多門があったようですが、絵図を見るとこの石垣の上に多門櫓があり、出入り口を守る門としての機能も担っていたようです。 これだけの城郭をよく山の上に作れたものだと感心しますね...。
ほとんどの石垣は野面積で積まれてるようです。 これだけの石をどこから山の上に運んだのでしょうか...。 少し気になります。 働かされている方も大変だったと思いますし...。
新櫓跡
この石垣の上に櫓があったようですが、地図との位置関係が少しあやふや...。
地図上の字が読み取れず、正確性を欠きますが、多分この辺りに2階建の櫓があったようです。
天守台
位置的にここが天守台かと思います。
天守は連立式で三重三階だったそうで、小天守まで備えてました。 高所にある山城ですが、かなり近世的な城郭だったようです。 二之丸から本丸に向かうには、この石垣の下を歩かされる事になり、上から狙い撃ちですね...。
なお、天守が取り壊されたのは明治24年頃との事。 保存出来なかったのが残念です。
本丸の虎口
いよいよ本丸に入ります...。 この辺りにも門があったのかな?
しかし、海外の遺跡みたいですね...。 城が取り壊されてから100年以上経つと、良い感じに自然と同化しています。
天守台の石垣を本丸側から見た所。
算木積に使用されている石材が綺麗に加工されており、切り出した時の矢穴の跡がハッキリと残っていて興味深いです。 重要な角の部分は切り出して加工した石材を使用し、面の部分は自然石を野面積で仕上げている事が良く解ります。
本丸
連立天守なので、本丸の周りは多門櫓で囲まれ、要所要所に天守、小天守、鉛櫓、煙硝櫓が配置されていました。 この本丸の中にも御殿があったようですが、絵図には描かれてませんね...。 さて、一休みしたら下山し、松の門方面に少し寄り道してみましょう。
千早門跡
本丸から来た道を引き返し、大手門跡を通過した後、曲がらずに真直ぐ進むと千早門跡があります。 絵図を見ても、ハッキリ描かれてないので不明です...。
大手門からここに来るまでの道の左側には大きな城代屋敷があったようですが、ほとんど印象に残ってませんね...。
宇陀門跡
千早門から更に下った先にあるのが宇陀門跡です。
残されている石垣の規模から察すると、それほど大きな門には思えないのですが、絵図を見ると周辺に多門櫓らしき建物が描かれており、ここも厳重に防御されていたと思われます。
松ノ門跡
さらに下った所にある松ノ門跡。 あまり状態が良く無く、説明が無ければ素通りしそうな場所です。 ここまでかなり下って来ており、引き返す事を考えるとこの辺りまでにしておきましょう...。
これから大手門跡まで登らなければ...。
高取城は想像以上に大規模な山城でした。
今度は時間がある時に二ノ門側から登ってみますか...。 でも、ほとんど山登りなんですよね...。 後に、藩主や家臣の住居が山裾に作られたのは、よく理解できます...。
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