佐賀県 名護屋城(2)2019年05月01日

前回の続きです。

天守台から水手曲輪側を眺めた所です。
本丸の下に細い通路のような場所があり、その更に下段に水手曲輪があるのだと思いますが、木が邪魔でよく見えません。
また、奥の方に進んだ先が秀吉が茶会を開いたと伝わる山里丸ですが、時間の都合で今回はそちらの方までは行きませんでした。
名護屋城・水手曲輪側

本丸多門櫓跡
本丸西側に連なる本丸多門櫓跡です。
本丸西側は築城後に拡張されており、本丸多門櫓は拡張した上に建てられています。
土塁のように少し盛り上がってますが、この辺りの石垣は廃城後に崩されているので、当時はもう少し幅が広かったようです。 この先には南西隅櫓がありました。
名護屋城・本丸多門櫓跡

天守台から本丸多門櫓側を見た所。
まっすぐ天守台に連結されず、少し不自然な印象を受けます。
西側拡張時の石垣が崩れ、昔の石垣の一部が露出しているのかも知れません。
名護屋城・本丸多門櫓跡

本丸南西隅櫓跡
築城後に拡張された場所に建てられた本丸南西隅櫓跡です。
名護屋城廃城後に櫓は取り壊され、疎石があった場所は盛土で埋め立てられたようです。
赤く舗装されている所が盛土で埋められた範囲を示しているようで、疎石が見つかった場所に展示用の石が置かれています。
名護屋城・本丸南西隅櫓跡

二ノ丸側から南西隅櫓台を見上げた所。
だいぶ崩落していたようで、廃城時に人為的に崩された可能性が高いようです。
そのような場所は土で覆って復元しているようです。
こういった遺構はどこまで復元するのか扱いが難しい所です。
名護屋城・本丸南西隅櫓台

馬場
本丸から三ノ丸に戻り、馬場に向かいます。
馬場は本丸南側にはる長さ 100m、幅 15m の細長い場所で、乗馬訓練をしたと伝わる場所です。 馬場付近の石垣は崩落の危険性があったので 1991年に修復工事が行われています。
名護屋城・馬場

馬場櫓台
馬場の中央やや二ノ丸側付近にある櫓台です。
1995年に解体修理しており、新たに補充された石材もあるようです。
この櫓台の前を馬が疾走していたのでしょうか...。 本丸からの眺めも良い場所です。
名護屋城・馬場櫓台

名護屋城・馬場櫓台

二ノ丸
本丸を挟んで三ノ丸の反対側にある大きな曲輪です。
昔の絵図には御殿のような建物が描かれてはいますが、二ノ丸は後の時代に全域が削られた為、当時の建物跡はほとんど残ってません。
掘立柱建物跡などの遺構も見つかっていますが、これらの建物跡は築城時に建てられた仮設建物だと考えられています。
名護屋城・二ノ丸

4つに区切られた長屋のような建物で、簡素な建物だったようです。
名護屋城・二ノ丸長屋建物跡

二ノ丸合坂
二ノ丸西側の石垣には合坂がありますが、廃城時に破却されたようで石垣はかなり崩れています。 合坂は石垣の上に登り下りする階段が頂上部、もしくは底辺部で V 字型に繋がった物で武者走りの一種です。
名護屋城・二ノ丸合坂

遊撃丸
1593年に明国の講和使節遊撃将軍が滞在した場所と伝わります。 曲輪の名前もそこから付けられたようです。
二ノ丸側からみると石垣の崩落が目立ちますが、これも人為的な物なのかも知れません。
名護屋城・遊撃丸

名護屋城・遊撃丸

名護屋城・遊撃丸の石垣

本丸側から見た遊撃丸。
ここから見ると周辺の石垣が美しいです。
名護屋城・遊撃丸

弾正丸
遊撃丸から二ノ丸を通過して搦手口に行く途中にある曲輪です。
浅野弾正長政が居住した事から弾正丸と呼ばれています。
浅野長政は五奉行の一人でしたが関ケ原の戦いでは徳川家康を支持して東軍に付きました。
名護屋城・弾正丸

搦手口
弾正丸への出入り口となる場所で、名古屋城の裏口と言える場所です。
通路がクランク状に折れ曲がっている食い違い虎口と呼ばれる構造になります。
名護屋城・搦手口

名護屋城・搦手口

三ノ丸付近の石垣を眺めながら駐車場に戻る事にします。
さて、次の目的地、平戸城に向かいましょう。
名護屋城・三ノ丸付近の石垣


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