愛知県 豊川稲荷 ― 2020年03月20日
豊川稲荷は名前からして「神社」だと思っていたのですが、正式は「円福山 豊川閣 妙厳寺」と称する「寺院」です。 妙厳寺は、東海義易禅師が 1441 年に開山し、寒巌義尹禅師伝来の千手観世音菩薩を安置したのが始まりになります。 また、寒巌禅師作の吒枳尼眞天像が山門の鎮守として祀られており、その吒枳尼眞天が稲荷信仰と習合して神社的要素が強くなったようです。
「豊川稲荷」と言う呼び名は吒枳尼眞天の通称のようで正式な名称では無いようです。
明治の神仏分離令の時に「豊川稲荷」の呼び名は廃止されたようですが、しばらくして「豊川稲荷」の呼び名は復活したようです。 周辺の人々にとっては「豊川稲荷」の方が自然だったのかも知れません。
総門
参拝者用の駐車場にバイクを停めます。 駐車場から総門までは 350m ほど歩くので、ちょっと遠い感じがしました。
総門は 1656年に一度改築されてますが、現在の総門は 1884年(明治17年)に上棟改築された時の姿のようです。 だいたい 200年くらいで大規模な改修が入っているようです。
「建替」と表現していないので、創建当時の部材が残ってたりするのでしょうか?
鎮守堂
元々は神楽殿だった建物のようです。 1930年に行われた本殿の落慶開帳の時に鎮守堂に改築されたようです。 祀られているのは曹洞宗の守護神、白山妙理大権現です。
こちらも神仏習合の神様ですね...。 修験道に基づく白山権現は神仏分離令、廃仏毀釈によって廃されたようですが、ここでは現在でも祀られているようです。
鐘楼堂
本殿の落慶を記念して 1937年の寄進された鐘楼堂です。
豊川稲荷の梵鐘は戦時中に供出した為に失われてました。 現在の梵鐘は終戦後に戦没者を慰霊する為に鋳造された物です。 豊川市は軍需工場があった為、空襲による犠牲者も出ています。
空襲のあった8月7日には犠牲者の法要が営まれます。 盆踊りは死者を供養する行事なので、「豊川みたま祭り」も一連の供養の一つなのだと思います。
山門
1536年に今川義元が寄進した建物で、豊川稲荷では一番古い建物になります。
1792年、1954年に修繕工事が行われています。 左右の仁王像は 1966年に寄進された物なので、比較的新しい物のようです。
創建時に山門に祀られていた寒巌禅師作の吒枳尼天像は、今でもこの門に祀られてるのでしょうか?
豊楽殿
御札授与所の隣にあるのが豊楽殿です。
1824年に建立された旧本殿の祈祷殿だった建物で、本殿を新築する時にここに移築されました。
大祭の余興に使われているようなので、神楽殿に近い建物でしょうか?
本殿
説明を見ると、どうやら山門に祀られていた寒巌禅師作の吒枳尼眞天像は本殿に祀られているようです。 現在の本殿は 1908年に着工し、1930年(昭和5年)に竣工したそうで 、20年以上もの長い年月がかかっています。
大きな建物なので大変な工事だったとは思いますが、資金的にも大変だったのかも知れません。
あと、豊川稲荷は「寺院」なのに「本堂」ではなく「本殿」と呼んでいるのも少し変わっています。
境内には鳥居もあり、豊川稲荷は不思議な感じがする「寺院」です。
訪問時、見た目は「寺」なんですが「神社」だと思ってたので、「二拝二拍手一拝」で参拝してしまいましたが、作法的には「お寺」になります。 でも、迷ってる感じの人も多かったですね...。
参拝後、奥の院の方に向かって進みます。
参道の途中にあったのが旧奥の院。
少し目立たない場所にあります。 昭和の初めまではここが奥の院の中心だったようです。
だとしたら、境内はそれからだいぶ広くなったんですね...。
弘法堂
1930年に改築された弘法大使像を祀る御堂です。
弘法大使空海は宗派が違うような気がしますが、関係性は良く分かりません...。
火灯窓の「びんずる様」がちょっと怖い。 (何故か、「びんずる様」はどこも顔が怖いですが...。)
大黒堂
土蔵造りの建物で、建立年代の説明はありませんでした。 土蔵造りの場合、見た目以上に古い場合もあるのですが、それほど古い建物には見えません。
建物の両脇にある大黒天を撫でると御利益があるとの事で、石像のお腹や膝が驚くほど擦り減ってました...。 ちなみに、「よこしまな我欲をもって祈願することなかれ」との事...。
いよいよ、霊狐塚へ。
ここから雰囲気が少し変わります....。
豊川稲荷は日本三大稲荷の一つとも言われますが(伏見稲荷以外は所説ありますが...)、伏見稲荷を総本社とする稲荷神社とは別物です。 でも、お稲荷様の雰囲気は、どこも似た感じがします。
霊狐塚には奉納された狐の石像がびっしり。 1千体はあるとの事...。
寒巌禅師が2度目の渡宋の際、船に乗っていると空に吒枳尼眞天が現れたそうです。 吒枳尼眞天は狐との結び付きがあった事から稲荷信仰と習合したのだと思いますが、もう一つ「平八郎稲荷」の伝承もあります。 こちらは東海禅師の開山を、「平八郎」を名乗る老翁が不思議な力で手伝った後、釜だけを残して消えてしまったお話しです。
奥の院
説明には、本殿と拝殿の移築に関してそれぞれ記載されていたので、この建物は拝殿でしょうか?
奥の院の本殿は「旧本殿の内陣」との説明もありました。
1814年に建立された建物で、元々は旧本殿の拝殿だった物を奥の院の拝殿として移築した物です。
参道の途中にあった旧奥の院と比べると非常に立派な建物なので、多分、今の大本殿が昭和初期に竣工した時に、奥の院も大規模改修されたのだと思います。
納符堂
奥の院の近くにある御堂で、お守りや御札を収める所です。
見た感じは新しそうな建物でした。
景雲門
1858年に建立された門で、1930年(昭和5年)に現在の場所に移築されました。
やはり、この頃に奥の院は大幅に改築されたようですね...。
だとすると、霊狐塚も、昭和初期に今の状態になったのでしょうか?
三重の塔
奥の院に向かう時に、塔の上の方が少し見えていたのですが、ここからは全体が良く見えます。
ちょっと小ぶりの三重の塔で、1976年に建立されました。
かなり新しい建物のようです。
豊川稲荷は「寺院」なのですが、「本堂」が「本殿」と呼ばれていたり、境内に鳥居があったりと、「神社」的な要素が強い変わった場所でした。
神仏習合は普通だったのですが、神仏分離令で多くの寺院ではその痕跡が消されているので、昔のお寺はこんな感じだったのかも知れないなと思いました。
印象に残る寺院です。
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