東京都 国分寺跡周辺(1)2020年08月09日

コロナの影響で県外に移動できないので都内の史跡を散策する事にします。
741年、聖武天皇の命により全国各地に国分寺が建立されました。 東京にも国分寺跡は存在するのですが、あまり意識する事はありませんでした。 きっかけは飛騨国分寺の仏像を拝観した時に、お寺の人と国分寺が東京にもあった事を話した事でした。
今回は2回目、8年ぶりの国分寺跡散策になります。

古代官道 東山道武蔵路
大化の改新(645年)の後、天皇を中心とした中央集権体制が進みます。 その際、東海・東山・北陸・南海・山陽・山陰・西海の七道が整備されます。
写真は東京都立多摩図書館前の道路の対岸にある歩道で、東山道武蔵路の一部だった場所です。
車道並みの広さがある歩道で、道路の両側に薄っすらと黄色いラインが引かれています。 このラインは側溝があった場所を示しています。 東山道武蔵路は幅 12m もある立派な直線道路でした。
このアスファルトの下に、昔の幹線道路が眠っています。
国分寺跡・東山道武蔵路

市立歴史公園(東山武蔵路)
東山道武蔵路は住宅街の中に消えていきますが、その一部は公園として保存されています。
ここは、介護老人施設と薬局の間にある市立歴史公園で、東山道武蔵路の構造を知る事ができます。 どうやら側溝は異なる年代で2つ存在していたようです。 第1期の側溝は、第2期に埋没、その西側に第3期の側溝が作られたようです。 道路が少し西にずれたようですね...。
国分寺跡・東山道武蔵路

道路の脇にあった特殊遺構跡。
第3期の側溝が埋まった後に作られたようで、「久」と墨書された須恵器の坏(つき)が出土しています。 また、2つの坏の口を合わせるような状態でした。 道路から災いが侵入する事を防ぐ為に、呪術的な目的で埋められたとも考えられています。 謎の多い遺構です。
国分寺跡・市立歴史公園・特殊遺構

先ほどの特殊遺構のあった場所から道路の反対側には竪穴住居がありました。
第1期の側溝が埋まった後の建物のようで、9世紀後半の遺物も出土しているようです。
東山道武蔵路の周辺からは、多くの竪穴住居跡が見つかっています。
当時も、幹線道路の周辺には人が集まりやすかったのかも知れません。
国分寺跡・市立歴史公園・竪穴住居跡

土師竪穴住居跡
国分寺公園の敷地内にある遺構です。
薬師堂西側を発掘調査した際、四棟の竪穴住居跡が見つかりました。 ここはその中の一つです。
竈の跡や土器なども見つかっています。 遺構の名称に使用されている「土師」とは、当時の一般的な土器だった「土師器」の事です。
国分寺跡・土師竪穴住居跡

元町八幡神社
土師竪穴住居跡のすぐ隣にある神社で、最初はここが国分寺薬師堂かと思ってました。
鳥居を見ても「神仏習合か?」程度に思ってました。 でも、建物をよく見ると神社の作りですね...。
案内も無く、国分寺跡とは、あまり関係の無さそうな神社のようです。
鳥居を出ると「国分寺薬師堂」の道案内がありました。 どうやら薬師堂はすぐ隣のようです。 まぎわらしい...。
国分寺跡・元町八幡神社

国分寺跡・元町八幡神社

国分寺・仁王門
宝暦年間(1751 ~ 1763年)に建立された、八本柱の門です。
1335年に国分寺金堂跡付近に 建立された旧薬師堂の資材がこの門に使用されているようです。
両脇にある格子状の中には寺を守る仁王像が安置されています。 仁王像の作者は不明ですが、門よりも古い、享保3年(1718年)に造られました。
国分寺・仁王門

国分寺・仁王門

国分寺・仁王門

仁王門の近くにあった石仏。
阿修羅像でしょうか? 腕が6本あります。
この辺りに来ると、急に雰囲気が変わりますね...。 この先にある薬師堂へと進みます。
国分寺・仁王門付近の石仏

国分寺・薬師堂
安置されている、木造薬師如来坐像は平安時代末期~鎌倉時代初期に造られたと考えられている古い仏像です。 薬師堂は、1335年に新田義貞によって金堂跡付近に建立されました。 武蔵の国分寺は 1333年の分倍河原の合戦で焼失したと伝わるので、国分寺の終焉には新田義貞も無関係では無かったのかと思います。 薬師堂の寄進は罪悪感からでしょうか?
現在の建物は 宝暦年間(1751 ~ 1763年)に再建された物です。
国分寺・薬師堂

国分寺・薬師堂

薬師堂の裏には石仏が並びます。
いい場所ですね。 気に入りました。
国分寺・薬師堂の石仏

国分寺・楼門
明治28年(1895年)に東久留米市の米津寺から移築された楼門です。
米津寺は三河から移住した徳川家臣だった米津氏の菩提寺として創建されました。 しかし、米津寺は明治時代に火災によりほとんどの建物を焼失してしまい、焼失を逃れた楼門がここに移築されました。
国分寺・楼門

国分寺・本堂
楼門の先にあるのが国分寺の本堂です。
国分寺は分倍河原の合戦で焼失しましたが、本堂は 1725年に再建されました。
現在の本堂は 1985年に再建された物です。
国分寺の境内は境界がはっきりせず、バラバラと建物が点在している印象を受けます。
国分寺・本堂

国分寺・本堂

国分寺の境内には万葉集の歌人が歌の題材に使用した植物を集めた万葉植物園があります。
国分寺の住職だった星野亮勝氏が昭和38年(1963年)まで13年かかって収集し、現在は160種類の植物が植えられています。
ただ、猛烈な蚊の攻撃を受けるので、薄着で奥まで入るのは止めた方が良いです...。
国分寺・万葉植物園

現在の国分寺を散策し終えたので、お鷹の道を通って武蔵国分寺跡資料館の方に移動します。
1748 ~ 1867年、国分寺市内は尾張徳川家の御鷹場に指定されていました。
その為、清流沿いの小道は「お鷹の道」と呼ばれており、現在の遊歩道にも使用されています。
この遊歩道を進むと武蔵国分寺跡資料館につきます。
国分寺跡・お鷹の道

炎天下の散策は苦労します...。
後半はのちほど...。