長崎県 出島2023年05月04日

出島は、鎖国時代に西欧との交流が出来た唯一の場所でした。 (最近、「鎖国は無かった」とか言う話もありますが...。)
島原の乱後にキリスト教を布教するポルトガル人を収容する為に造られた、扇状の人口島が出島の始まりでした。 ポルトガル船の来航が禁止されると出島は無人でしたが、代わりに平戸のオランダ商館が移転します。 それ以降、オランダとの交易は出島に限定されます。
現在では出島周辺は埋め立てられ、島だった頃の面影は残ってません。

水門
出島駅で路面電車を降りると目の前が出島なのですが、昔と同様に今でも入り口は表門しかありません。 その為には玉江橋で中島川を渡る必要があるのですが、その途中で見えるのが復元された水門です。 水門は19世紀初頭の場所に復元されており、大きな船は接岸できなかったので、沖に停泊した船からここまで小船で荷物を運んでいたようです。
この門には左右に2つの出入り口があります。 向かって右側が輸入用、左側が輸出用として使われました。 
出島・水門

西側護岸石垣
水門の前は荷捌き場として使用されていました。
発掘調査により、水門前の石垣が3階に渡って拡張されていた事が判明しています。
石垣の欠損部分を補い、当時の石垣が復元されています。
どうやら、今いる場所は海だったようで、荷捌き場の半分くらいは国道 499号の下に埋もれているようです。
出島・西側護岸石垣

中島川の対岸から出島を見ると、出島が扇状だった事が良く分かります。
ただ、この石垣は当時の物では無いようです。
幕末から明治時代初期の頃、中島川から流入する土砂により長崎港の水深が浅くなり、船が接岸できなくなる可能性がありました。
その対策として、中島川を出島の前に通す変流工事が行われ、その時出島も 18m ほど削られました。 どうやら、当時の出島はもっと手前まで張り出していたようです。
出島

出島表門橋
江戸時代は石橋でしたが、明治時代に行われた中島川の変流工事の時に取り壊されました。
再び橋が架かったのは 130年後のようで、2017年に現在の出島表門橋が架けられました。
史跡保護の観点から、出島側の護岸に橋台を設置する事が出来ず、江戸町側から片持ちで支えている特殊な橋のようです。
昔のように表門から出島に入れるようになったのは、わりと最近のようですね...。 
出島表門橋

前回長崎に来た時も出島に行きたかったのですが、時間的に都合が付かず諦めました。
ようやく、ここに来る事が出来ました。
出島のショップやレストランは 18:00 には営業終了ですが、見学だけであれば 21:00 まで可能です。 これだけ遅くまで営業していれば、他の散策が終わった後に来ても、十分見学可能なので助かります。
出島

旧石倉
安政の開国後に建てられたい石造の倉庫を 1956年に復元した物です。
現在はこの建物を考古館として使用しており、出土した資料などを展示しています。
見た感じ長手積みに見えますが、所々に幅が他よりも長い煉瓦が使われています。 これは何積みと言うのでしょうか?
また、煉瓦の色も少し気になります。 他の写真を見るともっと白っぽい煉瓦に見えるのですが、雨で濡れていると、水分の関係で違う色に見えるのでしょうか?
だいぶ印象が違います。
出島・旧石倉

陶製の門柱
1954年に長崎市立博物館から移築されました。
オランダのペトウルス・レグゥー窯のマークが刻印されており、出島で営業していた店舗で使用されていたと考えられています。 陶器と言う事なので焼き物だと思うのですが、これだけ大きな物が焼ける窯なんてあるのでしょうか? 繋ぎ目も無さそうですが..。
当時、ペトウルス・レグゥー窯の製品は大名に人気があったようです。
出島・陶製の門柱

旧出島神学校
この付近の建物は、明治期に建てられた建物になります。
1878年に英学校として建てられ、1883年に出島神学校となりました。
日本最初のキリスト教プロテスタントの神学校ですが、1886年に閉鎖されて宣教師の宿舎として使用されていました。 神学校として使用されていた期間は思ったよりも短そうです。
1910年頃からは病院として使用され、その後は長崎市が買い取り、文化財として保護されています。
出島・旧出島神学校

出島・旧出島神学校

出島・旧出島神学校

旧長崎内外クラブ
長崎に暮らす外国人と日本人の交流の場として、1899年に長崎内外クラブが設立されます。
発起人の中には、グラバーの息子、倉場富三郎も含まれていました。
この建物は、1903年に フレデリック・リンガーによって建てられた洋館です。
現在は1階が軽食が食べられるレストランになっています。
出島・旧長崎内外クラブ

出島・旧長崎内外クラブ

出島・旧長崎内外クラブ

組頭部屋
ここから先は復元ゾーンになります。
組頭部屋は蔵を囲むように建てられました。 この復元された組頭部屋も、建物の奥の方が銅蔵になっています。
組頭は地役人の乙名(「乙名」は、長崎での町役人の職名)を補佐する役目でした。
1階で輸出用の棹銅を保管し、2階で輸入品の鮫皮を管理していました。
出島・組頭部屋

輸出用の棹銅は、こんな感じで管理されていたようです。
人箱の重さは約60kg あり、1本 300g の棹銅が 200本入ってました。
蔵の天井が非常に高かったのが印象的でした。
出島・銅蔵

乙名詰所
組頭部屋に隣接していたのが乙名詰所で、復元された建物の内部です。
復元は、オランダ人が長崎で作らせた出島の模型を参考にしているようです。
乙名は交易を行う実務の責任者的な役割でした。 交易期間外は建物の修繕管理などを行っていたようです。 2階部分が住居でしたが、乙名が滞在したのは交易の期間時だけだったようで、普段は倉庫番や警備の番人が使用していたようです。
ちなみに、出島の最高責任者であったカピタンの部屋の裏には乙名部屋が別にあります。
出島・乙名詰所

十四番蔵
十四番蔵の内部です。 昔は輸入品の砂糖を管理する蔵だったようです。
2階の天井部分に滑車が付けられており、2階の床の一部が外せるようになっています。
この滑車を使って1階から2階に荷物を運んでいたようです。
出島・十四番蔵

出島の西半分を消失する大きな火災が 1798年にありました。
火災の後、もともとあった池を埋め立てて十四番蔵が建てられました。
ここでは、当時の十四番蔵の礎石跡と、池の跡を見学する事が出来ます。
十四番蔵の復元は、これらの遺構の上に盛土して行われました。
出島・十四番蔵

筆者蘭人部屋
緑色の窓枠や手すりが特徴的な建物で、オランダ商館の帳簿書記(筆者)の住居でした。
建物は4区画に分かれているので、数人の書記官が生活していたのかも知れません。
また、内部の情報が少なかった為に復元が難しく、建物は展示室として活用しています。
出島・筆者蘭人部屋

一番船頭部屋と、ヘトル部屋
左手前にあるのが一番船頭部屋で、右奥に見える窓枠が緑の建物が商館長次席だったヘトルの部屋です。 ヘトル部屋の1階はミュージアムショップになっています。
「船頭」と言う表現が微妙ですが、要はオランダ船の船長の事です。
2階西側が船長の滞在場所で、2階東側が商館事務員の住居でした。
外観に洋風な感じはありません。
出島・一番船頭部屋

一番船頭部屋の1階は倉庫として使用されていました。
計量に使用する天秤や分銅、不良品の木炭や砂糖などが置かれていた事が記録として残っています。 ここは、荷揚げをした水門に近い建物なので、倉庫としても使い勝手が良かったのかも知れません。
出島・一番船頭部屋、倉庫

2階、一番船船長の部屋
夏になるとオランダ商船が2隻来航するのが通例でした。
その内、先に来る1番船の船長が11月頃まで滞在した部屋です。
なお、船員は滞在中も船で暮らしていたようです。 キツイ仕事ですね...。
1851年に来航したオランダ船船長デ・コーニングの手記を参考に再現しています。
他に、オランダ商館員の部屋なども再現してありました。
出島・一番船頭部屋、船長部屋

出島・一番船頭部屋、船長部屋

左側の白い建物が手前から一番蔵、二番蔵になります。
また、右奥に見える緑色の建物が、出島の最高責任者であったカピタンの部屋です。
一番蔵には砂糖、二番蔵には染料の「蘇木」が管理されていました。
19世紀初頭には、一番~十七番蔵まであったようです。 オランダ人は花の名前で蔵を呼んでいたようです。
出島・一番蔵、二番蔵

出島・一番蔵

二番蔵から裏側に出た所。
右手前から、三番蔵、拝礼筆者蘭人部屋、突き当たりに見えるのが新石倉。
他の蔵は土蔵でしたが、三番蔵は普通の木造建築のようです。
出島・三番蔵、拝礼筆者蘭人部屋

拝礼筆者蘭人部屋
2階がオランダ商館の主席事務員の住居でした。
先に見た筆者蘭人部屋の方は、4部屋ほどの長屋だったので、こちらの方が位の高い事務員用だったのだと思います。
1階の使われ方は不明なようですが排水溝跡が見つかっており、土中からは水銀が検出されている事から、医薬関連に使われていたと考えられています。
出島・拝礼筆者蘭人部屋

新石倉
1865年に建てられた石造の石倉です。
「1967年に長崎市が買い上げて、一部旧材を用いて 1976年に復元」との説明があったので、こちらも復元した建物だと思います。
案内所として使用されているようですが、到着した時には後片付けをしている状態だったので、中には入れませんでした。
出島・新石倉

出島は思ったよりも展示物が充実していました。
1時間程度で見学しましたが、じっくり資料をみたらもっと時間がかかったかも知れません。
これで、今回の長崎旅は終わりですが、長崎はまた来たいですね。