三重県 田丸城(1) ― 2023年10月08日
田丸城は 1336年に北畠親房が伊勢の拠点として築いた城です。
北畠氏は 1342年に落城した時に今朝訪問した多気北畠氏城館に拠点を移したとの話がありますが、その後も北畠氏が田丸の姓を名乗ってこの地に残っている事を考えると、一度落城したけど取り戻したと言う事でしょうか?
織田信長が伊勢に侵攻した後、1569年に北畠具教が降伏しています。 この時、織田信雄は具教の養嗣子となり北畠姓を名乗っています。 1571年に田丸城は信雄に譲り渡されており、1575年に田丸城は大幅に改築されます。 この頃、信雄は織田姓に戻っており、北畠氏はなんだかんだで城を乗っ取られた印象を受けますね...。 しかし、1580年に火災で田丸城は消失し、信雄は松ヶ島に移っています。
1584年に田丸直息が田丸城主に復帰してますが、この事は本能寺の変で織田信長が討たれた事も影響しているのかも知れません。 1619年からは久野氏が幕末まで所領します。 ただ、城主が在城する事は無く、城代に任せていたようです。
田丸城駐車場
津城を出発した時にパラつき始めた雨は、田丸城に着いた時には本格的な雨になってました...。
田丸神社近くの駐車場にバイクを停めますが、駐車場はガラガラでした。 この雨の中、散策に来る人はあまりいないのでしょう...。
村山龍平記念館の駐車場にバイクを停めて田丸城を散策しても良いのか分からなかったので、ここから村山龍平記念館に歩いて続100名城のスタンプを押しに行きます。
C58414蒸気機関車
村山龍平記念館に行く途中に展示されていた機関車です。
C58型は 1938年から製造を開始した中型の蒸気機関車です。 1946年から 2年間に第2形として 45両が製造され、その内 39両が戦後に接収されました。 この車両は残った 6両の一つで、函館線、千歳線で運用されていました。 1973年に廃止された後、現在の場所に展示されています。
この地域とは直接関係は無さそうですね...。
村山龍平記念館
続100名城のスタンプは出入り口付近に置かれていたので、受付まで行かなくてもスタンプが押せました。 村山龍平は旧田丸藩藩士だった人物で、1881年からは朝日新聞社の社主でした。 国会議員を務めた事もあります。 展示室の方も見学して行こうかとも思ったのですが、ズブ濡れ状態だったので今回は見学せずにそのまま田丸城を見学する事にしました...。
記念館やお城広場の辺りは昔の郭跡のようで、お城広場付近には代官屋敷があったようです。
三の丸御殿奥書院
資料館の隣にありました。
1677年に三ノ丸に建てられた御殿奥書院の一部を 1991年に移築・復元した建物です。
田丸城の建物は廃城後に全て取り壊されるか売却されましたが、奥書院の一部が農家に移築されて住居として使用されていました。 1990年に住宅を改築した時に玉城町が譲り受け、現在の場所に移築・復元したようです。
一部とは言え、当時の建物が残っていたのは良かったです。
内堀
蓮に埋め尽くされて水面が見えませんが、ここは田丸城の内堀だった場所です。
この蓮は「大賀ハス」と呼ばれる古代の蓮です。 縄文時代の蓮の種三粒が見つかり、その一つを東京農大の大賀一郎博士が開花させる事に成功しました。 その蓮の子孫が田丸城築城 670周年記念としてここに移植されました。
見頃は 6下旬 ~ 8月上旬なので、残念ながら花は散ってましたね...。
二の門跡
三之丸の入り口だった門で、今でも石垣が綺麗に残っています。
門跡を通ると折り返すような感じになっています。 現在の道路は当時の登城路とは違うかも知れません。 かなり立派な石垣なので櫓門でしょうか?
三之丸(玉城中学校)
当時、三之丸だった場所は玉城中学校になっています。
多分、三之丸に学校が建った事で、郭内の形状はだいぶ変わってしまってると思います。
三之丸を回り込むような現在の道路は、やはり、当時の登城路とは違うような気がします。
先ほど見た御殿奥書院は、学校の敷地のどこかだったのでしょう。
学校なので中には入れませんが...。
蓮池跡
多分、城だった頃からあった池のようです。
当時は貴重な水源だったはずです。
三之丸が中学校なので通り抜ける事が出来ません。 かなり遠回りになりますね...。
富士見門(長屋門)
元々、三之丸にあた門ですが、廃城後に宮古の乙部氏邸に移築されました。 1984年に町が譲りうけ、現在の場所に移築されました。
元々、門の両側には長屋作りの侍溜がありました。
田丸城の貴重な現存建物になります。
本丸虎口付近まで来ると、複雑な石垣が見えてきます。
本丸側の石垣でしょうか?
本丸虎口
本丸出入り口付の手前には帯郭のような場所があり、そこに出出入りする虎口です。
「本丸虎口」と言う表現が適切かは不明ですが、案内が「本丸虎口」だったのでここではその名称を使用します。
石垣の構造がかなり複雑で、当時の門位置などがイメージし難いですね...。
多分、これが発掘調査で見つかった、門の礎石位置だと思います。
門の礎石とは別に石列も見つかっているようです。
宝暦年間(1751 ~ 1764年)の古図には掲載されていない門のようで、もっと古い時代の門跡だと考えられています。
北之丸の方に移動して上から本丸虎口の方を眺めた所。
階段状の石垣と、苔むしたような雰囲気がカッコ良いです。
北之丸
現在の北之丸には城山稲荷神社が鎮座しています。
多分、廃城後に鎮座した神社だと思いますが、経緯は良く分かりませんでした。
北之丸の石垣は田丸城で一番古いとの事でしたが、鳥居が並ぶ辺りの石垣はそれほど古い年代の物には見えません。 雨が強くて足早に散策した為に見落としましたが、多分、北之丸の北側の石垣が田丸城で一番古いと言われてる場所だと思います。
本丸の石垣
北之丸から本丸虎口の方に移動します。
良く見ると、手前の方と奥の方では石垣の積み方が異なります。 手前は野面積みですが、虎口付近は打込み剝ぎです。 もし、この辺りの石垣が当時のままであれば、虎口付近は後から整備されたのかも知れませんね...。 奥に見える虎口の先は本丸になります。
本丸虎口
遊歩道に埋められている石の部分が、発掘調査で見つかった門の礎石跡だと思います。
門は17世紀頃に建てられたようで、宝暦年間(1751 ~ 1764年)を挟んで改修が行われているようです。 間口 6.2m、奥行き 2.6m ありました。
見た感じ、櫓門でしょうか?
この先は本丸です。 次回に続きます。
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