山口県 萩城(1) ― 2022年05月01日
関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は、周防国・長門国の2ヶ国に減封されます。 その為、1604年に新たな拠点として萩城を築城します。 毛利輝元が入城した時、萩城はまだ未完成でした。
幕末の 1863年、藩庁を山口城に移した為、それ以降の萩城の重要性は低くなります。 明治維新後の 1874年、廃城令により建物は取り壊されてしまいます。
現在、萩城は「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産登録されています。
天気予報を信じて雨具をホテルに置いてきたので、途中で雨が降ってきた時は焦りました。
たまに小雨がパラつきますが無事、指月第一駐車場に到着。 結構、混んでたので駐車場の端の方にバイクを停めます。
昔はこの駐車場付近は三之丸だった場所で、侍屋敷がありました。
二之丸南門跡
駐車場から萩城の方に進むと、二之丸南門の桝形虎口が見えてきます。
かなり大きな虎口です。
この虎口の手前に中堀がありましたが、堀は埋め立てられてしまいました。 萩城の中は自転車通行が可能なので、この虎口手前のレンタサイクルで自転車を借りて散策する人も多かったです。
桝形虎口の中に毛利輝元像がありました。
元像は元就の孫で、豊臣政権の時は五大老の一人でした。 関ヶ原の戦いで徳川家康にやぶれ、総大将だった輝元は大きく力を失います。
輝元は萩城を築城し、城下町を発展させる事に力を注ぎます。
本丸門前の橋です。
本丸の内堀は、当時のまま残っているようです。 かなり幅の広い立派な水堀です。
場所的に海から水を引いてるのかと思ったのですが、鯉が泳いでるので淡水でしょうか?
内堀の奥には天守台が見えます。
この橋の先に萩城の券売場があり、そこに100名城のスタンプが置かれています。
本丸門から天守台の間にある石垣は、内側が階段状になっており、上に登る事ができました。
石垣の上は意外と幅が狭く、これだと石垣の上にあったのは多門櫓では無く塀だったのでしょう。
萩城の築城は、敗戦による減封が原因だと思うので、まったく予定には無かったと思います。
それでも、よくこれだけ立派な物が築けたと思います。 財源は大丈夫だったのでしょうか?
天守台
五層五階の望楼型天守で、北側には付櫓があったようです。
天守は、高さ 14,4m、下層の幅は東西 19.8m、南北 16.2m ありました。 上に登ると礎石跡が残っています。
萩城の天守は明治まで現存していたのですが、老朽化が進んでいたので保存は難しかったのかも知れません。 写真とかも残されているので、復元される日が来るかも知れませんが、世界遺産登録されているので、復元は意外と面倒なのかも知れません。
西側の水堀
入り組んだ、複雑な形状をしています。 でも、当時の姿を良く残しています。
花江茶亭
多分、この辺りは本丸御殿だったと思います。
花江茶亭は安政年間(1854 ~ 1860年)初期、毛利敬親が三之丸の花江御殿に建てた茶室でした。
幕末の動乱期には、家臣らとここで国事を論じていたようです。
1889年(明治22年)頃、茶室は買い取られ、現在の場所に移築されました。
万歳橋
志都岐山神社の手前にある石橋が万歳橋です。
1719年、三之丸に萩藩校明倫館が設立され、1849年に江向に移設されます。 その時に聖廟前に池を堀り、その池に架けられた橋がこの万歳橋です。
1878年(明治11年)、萩城本丸跡地に豊栄・野田両神社の遙拝所が建てられ、その時に万歳橋が現在の場所に移築されました。
最近のコメント