石川県 鳥越城(2) ― 2025年08月09日
中之丸付近の腰曲輪
鳥越城の西側を守る腰曲輪を南側に移動すると、かなり幅が狭い場所がありました。
腰曲輪の南端部分は独立した曲輪のような感じになっていました。
この辺りは意図的に道幅を広げなかったのかも知れませんね..。
腰曲輪を折り返すように山の斜面を登ると、その先に中之丸門があります。
中之丸門
細い登坂の先に復元された中之丸門が見えてきました。
中之丸門は鈴木出羽守の時代に建てらたようですが、柴田勝家が攻撃した時に焼失しているようです。 その後、中之丸門は柴田軍によって再建されており、中之丸門は勝家の時代設定で復元しているようです。
前二之丸
中之丸門から中之丸に入って右側が前二之丸です。
中之丸と前二之丸は土塁で分断されてますが、若干、前二之丸側の方が高い位置にあるようです。
曲輪周辺は土塁で囲まれてましたが、土塁の痕跡はあまり残って無かったです。
曲輪の中からは複数の建物跡が見つかっており、建物は建て替えられた痕跡が見つかっているようです。 前二之丸からは、鉄砲玉、鏡、漆器碗、皿、賽子などが出土しているようです。
前二之丸の2ヶ所から隅櫓跡が見つかっています。
建物には礎石が使われていたようです。 物見台のような建物があったのでしょうか?
更に奥に行くと前三之丸があるのですが、もう一度登って来るのが面倒なので行かずに引き返してしまいました...。 後で縄張りを確認した所、たいした距離では無かったので行けば良かったです。
中之丸
本丸とだいたい同じ位の広さがありそうです。
構造的に本丸に入るには中之丸を経由する必要があるので、かなり重要な曲輪だったと思います。
中之丸からは礎石建物跡が見つかっています。 建物の復元は認められ無かったのですが、周りの景観い合わせた休憩所が建てられていました。
枡形門
本丸の位置口は桝形虎口になっており、この門は桝形虎口の外側にある門を復元した物です。
枡形門は柴田勝家の時代を想定して復元した高麗門で、恐らく発見された礎石跡をベースにしていると思います。
枡形は石垣で構築されており、鳥越城では石垣で囲まれている設備はここだけです。 ただし、石垣の一部が崩落しているようでシートが被せられていました。 どうやら、能登地震の影響で石垣が崩落したようです。
桝形虎口
一向一揆勢の時代は枡形は存在せずに空堀だったようです。 その頃の空堀は、幅 3m、深さ 1.5m もある大きな物だったようです。
鳥越城を落城させた柴田勢は一向一揆勢が造った空堀を埋め立てて、その上に桝形虎口の石垣を築いたようです。 桝形虎口の石垣は廃城時に崩されており、現在の石垣は復元した物です。
なお、一向一揆勢が鳥越城を奪い返した時にはこの枡形は存在していたようです。 油断していたのかも知れませんね..。
本丸門跡
桝形虎口の内側にあった本丸門の跡です。
本丸門は本丸の南側に位置しており、ここが本丸唯一の入り口でした。
門は掘立柱だったようで、門の両側は高い土塁で守られていたようです。
昔は本丸門も復元されていたようですが、昨年、老朽化により取り壊されたようです。 ただ、以前に復元した櫓門が一向一揆の時代の遺構と合っていないとの指摘があり、文化庁が再建に難色を示しているようです。 まぁ、以前に復元した時も時代的な考慮はしていたようですが...。
本丸
一番高い場所にある曲輪で、多くの建物跡が見つかっています。 また、建物は何度も建て替えられた痕跡があり、火災で焼けた痕も見つかっているようです。
鳥越城の攻防は織田側にも多くの犠牲者が出ています。 一度は落城した鳥越城ですが、翌年には一向一揆勢の反撃で奪い返されています。 その時に鳥越城を守備していた織田側の武将 300名は全て討ち死にしているようです。 ここでも壮絶な戦いがあったのかも知れませんね...。
一度は鳥越城を奪い返した一向一揆勢ですが、金沢城から駆けつけた佐久間盛政によって鎮圧されます。 その時、一向一揆勢は討ち死にするか処刑されてしまい、鳥越城の周辺は「3年間、人がいない地」と呼ばれるほどの状況になりました。
ここは、武士どうしの戦いには無い、陰惨な戦いが眠る場所だったのかも知れません。




















最近のコメント