千葉県 臼井城跡 ― 2023年12月03日
北印旛沼、西印旛沼のダムカードを入手後、近くを調べてみると西印旛沼の近くに臼井城跡が見つかたので、そちらも見学していく事にします。
この辺りは、1114年に千葉常兼の三男常康が居を構えてから臼井氏による統治が始まります。 14世紀中頃に興胤が臼井城の基礎を築き、現在の遺構は 15世紀以降の物と考えられています。
1561年、上杉謙信の小田原攻めの時に里見勢に攻められ臼井城は落城し、臼井氏による統治が終焉を迎えます。 臼井城はその後、原氏が所領します。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると原氏は敗れ、徳川家康の家臣だった酒井家次が所領し臼井藩となります。
しかし、1593年に火災で臼井城は消失、1604年には家次も移封となり臼井藩は廃藩、臼井城も廃城となります。
臼井城址公園駐車場
駐車場に気が付かずに通り過ぎてしまいましたが、なんとか到着。
この辺りは本丸と二之丸を分断している堀底のような場所で、二之丸に登ってみると結構な落差がある事に気付きます。
二之丸
結構、広い二之丸です。
これだけの広さなので、何も建物が無かったとは思えません。
1593年の火災は、この辺りにも影響したのでしょうか...。
発掘調査はされているのでしょうか?
三之丸の方に行きたいので、現在の公園入り口の方に来ました。
こごが、城だった頃に虎口だったのかは不明ですが、郭が周辺の住宅地よりも高い場所にある事が良く分かります。
太田図書の墓
少し高台になっており、多分、この辺りは三之丸だったと思います。
室町時代中期の千葉氏は、古川公方と管領上杉氏との抗争に巻き込まれて分裂状態にありました。
1478年、上杉方の太田道灌は公方方の千葉孝胤と戦い、 敗れた孝胤は臼井城へ敗走します。 道灌は弟の太田図書助資忠と臼井城を包囲しますが、攻め落とすのが困難とみて引き上げる事にします。 しかし、討って出てきた城兵と激戦となり、臼井城は落城しますが弟の資忠は討ち死にします。
三之丸
太田図書の墓所から奥の方に見えるのが三之丸だったと思われる場所です。
現在は畑になってるようで、多分、私有地なのでしょう。
ここから眺めるだけにしておきます。 本丸に行く為、二之丸に戻りましょう。
土橋付近
二之丸と本丸の間は堀切で分断されており、郭間は土橋で繋がっています。
この辺りから郭の外を眺めると、かなりの落差があります。
保存用に盛土されているので、当時の姿とは少し異なるのかも知れません。
本丸側から二之丸側を振り返った所。
ここだけ道幅が狭くなっています。
向かって左下が駐車場になっている場所です。
本丸の虎口っぽい場所です。
見た感じ、石垣が無い土の城のように思えます。
本丸
二之丸よりは少し狭いですが、それでも十分な広さです。
本丸の発掘調査では、中国・明時代の陶磁器、火事の時に焼けた米などが見つかっているようですが、建物跡とかは見つかっているのでしょうか?
どんな建物が存在していたのか気になります。
あと、人がほとんいませんでしたが、紅葉がすごく綺麗でした。
本丸北側
本丸北側の一段低い部分は、腰曲輪のようなってるようです。
ただ、公園化した時に整備されたのか、城跡なのかはよく分かりません。
ただ、臼井城の郭は周りよりもかなり高い場所にある事が良く分かります。
本丸の周辺は土塁で囲まれていたのかも知れません。
少し盛土されているような印象を受けます。
本丸から西印旛沼が見えました。
昔はもっと湖沼が大きかったと思うので、印旛沼も防御施設の一部として考えていたのかも知れませんね...。
何気なく立ち寄った城跡でしたが、遺構も良く残っていました。
歴史的に有名な戦いにも関係しており、その割には知名度が低い印象を受けました。
周りが住宅で囲まれてますが、このまま保存されて欲しい城跡です。
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