京都府 福知山城2024年09月15日

丹波の国人塩見氏が築城した掻上城が福知山城の前身で、後に塩見氏は横山に改め、城の名前も横山城に変わります。 明智光秀が丹波を平定すると地名を「福智山」に改定し、1579年には横山城の跡地に福知山城を築城します。 昔の地名は現在の「知」では無く、明智の「智」だったようなので、築城時は「福智山城」だったのかも知れないですね...。
石垣や天守は光秀の甥の秀満が城代になってからのようです。 1582年、本能寺の変の後に光秀が豊臣秀吉に討たれると、羽柴秀勝(織田信長の四男で、秀吉の養子)が城主となり、関ヶ原合戦まで秀吉の家臣が城主を務めます。 関ヶ原合戦後は、有馬氏、岡部氏、稲葉氏、松平氏が城主となり、1669年に朽木氏が城主になると幕末まで続きます。

バイクを福知山城公園観光駐車場に停めて福知山城を見学します。
この駐車場は来場者数に比べて小さすぎるように思えました。 バイクはすんなりと停められましたが、車だったら順番待ちの状態でした。
福知山城

昇龍橋
城周辺の都市開発がかなり進んでおり、本丸以外の遺構はほとんど残っていません。
駐車場と福知山城の間には法川が流れており、法川は昔も堀として機能していたようです。
現在は、昇龍橋を渡って本丸に簡単に入れますが、当時はこのような橋は無かったと思います。
駐車場から見て本丸の反対側に二之丸、三之丸が並んでおり、当時はそちら側から入城したのだと思います。 二之丸、三之丸の痕跡や、法川以外の水堀の痕跡は、ほとんど残って無いです。
福知山城・昇龍橋

福知山市佐藤太清記念美術館
この多門櫓や隅櫓は、1990年に開館した福知山の名誉市民である佐藤太清の作品を展示する美術館です。 どこまで当時の外観が再現されているのか不明ですが、湾曲している石垣を沖縄以外で見た記憶が無いので、この辺りの石垣は美術館を建てた時の物かも知れません。
廃城時の写真でもあれば良いのですが、年代的に、多分、ふるさと創生事業で建てられた模擬櫓だと思います。
福知山市佐藤太清記念美術館

福知山市佐藤太清記念美術館

美術館から遊歩道を登って本丸に向かいます。
法川側に登城路は無かったと思うので、この道は多分、公園整備した時の物でしょう...。
福知山城・本丸へ

先ほどの場所から一段あがった場所に来ました。 ここから見えるのは本丸の石垣です。
福知山城は明治時代に廃城になると、天守周辺の石垣と銅門以外は失われました。
見た感じ、本丸周辺の石垣は当時の物だと思います。 少し大き目の切り出された石材が使われているようです。
福知山城・本丸の石垣

角度が緩い為なのか、角の部分が湾曲しているように見える変わった石垣です。
同じ本丸の石垣なのですが、こちらは自然石を使った野面積みで、上の方を良く見ると石仏か墓石の台座のような石材が使われています。 恐らく、転用石でしょう。
福知山城・本丸の石垣

本丸の石垣の前にある塀は、公園として整備した時の物でしょう。
塀の奥にあるのが当時の本丸の石垣だと思います。 良く見ると奥の方に横矢掛の出っ張りがあり、その段差を隠すように塀が設置されているようです。
今なら、このように横矢掛を隠すような整備はしないと思いますが、当時はフラットな石垣にする方が良いと考えられていたのでしょう...。 史跡に対する考え方が変わって来たのだと思います。
福知山城・本丸の石垣

銅門番所
福知山城で現存する唯一の建物かも知れません。
現在の市役所の東付近にあった銅門脇にあった番所で、大正時代に天守台に移築され、1984年に天守を再建した時に現在の場所に移築されました。
福知山城・銅門番所

福知山城・銅門番所

豊磐井
「豊磐」の名は、福知山藩主朽木氏初代朽木稙昌の父、稙綱の神号「豊磐稙綱彦命」にちなんだ物です。 この井戸は深さ 50m もある非常に深い井戸で、本丸内の井戸としては日本一の深さです。
地下の水脈まで岩盤を掘り下げており、そこまで深く井戸が掘れるのは、当時の技術力が相当高かったのだと思います。 現在でも水をたたえているようです。
福知山城・豊磐井

釣鐘門
江戸時代の絵図を参考に 2008年に復元された門です。
名称からして、2階部分に鐘があったのだと思います。 2階部分の大きさに対して柱が細く感じてしまい、少し不安定さを感じる門です。 もしかしたら、当時は両脇が石垣だったのかも知れませんが....。
福知山城・釣鐘門

朝暉神社
御祭神が豊磐命なので、朽木稙昌の父、稙綱が祀られているようです。
稙昌が福知山城に入城した時に、藩祖として稙綱を城中に祀ったようなので、城中に朝暉神社があったようです。 明治時代に福知山城が廃城になると一時期、城外に社を移したようですが、1881年には本丸内に戻されたようです。
福知山城・朝暉神社

鉄砲石
鉄砲の名手、牧重郎左衛門の技量を称える石碑で、城主松平忠房が建てた物です。
元々は土師の方にあった石碑ようです。 道路整備により放置された後、民家の裏庭にあったようで、福知山城が再建された時に寄進されたようです。
文字が彫られているのは分かりますが、ほとんど読めないですね...。
福知山城・鉄砲石

天守
福知山城の天守は廃城時に取り壊されましたが、1986年に復元されました。
かなり複雑な形をした天守で、小天守のような櫓が天守に連結している構造です。
復元した時に写真が存在しなかったので、どこまで再現されているのか疑問を持たれたようですが、後から天守の写真が発見され、かなり史実に近い状態で再現されていた事が判明したようです。
福知山城・天守

福知山城・天守

福知山城・天守

天守石垣のこの部分を良く見ると、中央部分に斜めに不自然な境目があると思います。
この境目は天正年間(1573 ~ 1592年)に石垣を付け足した跡のようです。 多分、天守を建てる時に石垣を付け足した跡なのだと思います。
ただ、左右の積み方に違いが無のでほぼ同年代だと思われるので、1579年に福知山城の築城を開始して、すぐに付け足した感じでしょうか?
福知山城・天守の石垣

天守の石垣は、転用石が目立ちます。
これだけ多くの転用石が使われている石垣も珍しいかも知れません。
とにかく急いで築城した感じなのかも知れません。 
ただ、石仏や墓石を使ってバチが当たったかのように、福知山城を築城して3年後に光秀は豊臣秀吉に討たれます...。
福知山城・天守石垣の転用石

福知山城・天守石垣の転用石

天守内部は資料館になっています。
資料館の受付で続 100名城のスタンプを押して館内を見学します。
明智光秀に関する資料が充実している感じでした。
また、ここは 2022年に藤井聡太×広瀬章人の竜王戦が行われた場所でもあり、当時の対局場所が残されていました。
福知山城・天守内部

福知山城・天守内部

天守から北側を眺めた所です。
こっちは町人の居住区があった方角かな?
光秀の時代はそこまで発展して無かったかも知れませんが..。
福知山城・天守からの眺め

最後に本丸周辺の石垣を見学してから帰る事にします。
土塀付近と、その下で若干、石垣の積み方が違うような気がします。
もしかしたら、石垣の上の方は福知山城を復元する時に積み直された物なのかも知れません。
福知山城・本丸の石垣

天守台付近のこの辺りの石垣は、比較的小さい自然石を使った野面積みで、年代的にも古い感じがします。 江戸時代に石垣の修復が行われたのでしょうか?
福知山城・本丸の石垣

これで、続 100名城も後一つです。