群馬県 上野国分寺跡、山王廃寺跡 ― 2025年03月21日
聖武天皇による国分寺創建の詔が 741年に発せられると、日本各地に国分僧寺と国分尼寺が創建されました。 749年に碓氷郡と勢多郡の豪族が国分寺の創建に協力したとの記録があり、上野国分寺はその頃に創建されたと思われます。 しかし、1030年頃には衰退しており、14世紀頃には伽藍のほとんどが失われていたようです。
上野国分寺館
上野国分寺館は、上野国分寺のガイダンス施設です。
まずは上野国分寺館で関連ビデオや展示資料を見学しました。
ガイダンス施設に来て正解だったのは、山王廃寺跡に駐輪スペースがある事を教えて貰えた事です。 バイクとは言え細い道路の路駐は避けたかったので、山王廃寺跡の見学は諦めていたのですが、この後、無事に山王廃寺跡の方も見学する事が出来ました。
築垣
ほぼ正方形だった上野国分寺の敷地は、周囲を築垣で囲んでいました。
築垣は、棒で土を突き固めて積み上げる、版築工法が使用されいます。 高さ 3.9m、下幅 1.8m で、2.4m 毎に柱が建てられました。 また、1㎡ 辺り 4t もの重量があります。
この築垣は、当時と同じ技法で復元されています。 多分、結構な重労働だったと思いますが、史跡の管理も大変ですね..。
南大門跡
特に案内はありませんでしたが、この築垣が空いてる場所が南大門があった所だと思われます。 発掘調査により礎石が見つかっており、現在では五間門だったと考えられています。
この門の先に中門、金堂、講堂が直線的に並びます。
案内が無かったので確証はありませんが、多分、この辺りが金堂があった場所だと思います。
金堂を囲むように廻廊があったようで、南大門を通ると中門があり、そこから金堂を囲む廻廊の中に入る構造だったようです。
発掘調査により、講堂の前に金堂と廻廊跡が見つかっています。 それまで、講堂が金堂だと思われていました。 多分、その内、金堂や廻廊の場所が分かるように展示されると思います。
梅が綺麗です。
天気も良くて癒されます。
入手したパンフレットを見ると、この梅の後ろ付近に廻廊があった場所かな?
七重塔
ここに七重塔があったと考えられています。 場所的には金堂の隣に並ぶような位置です。
ここから 15個の礎石が見つかっており、見つからなかった 2個の礎石を追加して、当時の礎石位置を再現しています。 礎石の間隔から、高さは 60.5m もある大きな塔だったと推定されています。 創建された年代の頃の人々にとって、高さ 60m の建物は初めて見る高層建築だったと思います。
七重塔から伽藍の中心部分を眺めた所。
左奥に見えるのが講堂があった場所。 ちょうど、この七重塔があった場所と行動があった場所の延長線上付近に金堂がありました。
また、七重塔と講堂の中間付近に鐘楼があったようです。
講堂
昔はここが金堂だと思われてましたが、金堂の場所が見つかった事により、現在は講堂とされています。 発掘調査で 8個の礎石が見つかっています。
講堂の隣付近から伽藍の奥の方を眺めた所。
講堂の裏には僧坊があったと推定されてますが、詳しい説明が記載されて無かったので、まだ見つかって無いのかも知れません。
今後、発掘調査が進むと、さらなる発見があるかも知れません。 また、保存整備が進めば、もっと当時の伽藍配置が把握しやすい展示になるかも知れませんね...。 今後を期待して山王廃寺跡の方に移動します。
山王廃寺跡の駐輪場
山王廃寺跡の斜め前付近にある駐輪場です。 奥に日枝神社が見えます。
地元の人の協力によって駐輪場として使わせてもらえてるようです。 助かります。
山王廃寺跡は立派な寺院だったようで、多分、この辺り一帯が境内だったのだと思います。
山王廃寺跡が創建されたのは 7世紀中頃なので、上野国分寺よりもかなり前からあった寺院のようです。
日枝神社
この辺りが山王廃寺の中心的な場所だったようです。
この辺りから発掘調査で金堂跡と塔跡が並ぶように見つかっています。
金堂は 22m × 21.7m、塔は 13.5m × 13.5m の大きさでした。
金堂と塔を囲むように廻廊があり、金堂、塔の裏に講堂がある伽藍配置になります。
鴟尾
石で作られた鴟尾が見つかっています。
石製の鴟尾は珍しく、現存する石製鴟尾は山王廃寺と鳥取県の大寺廃寺の2ヶ所だけです。
塔心柱根巻石
内径 96cm あります。
心柱の根本を装飾していた石材だと思われます。
塔心礎
心柱の下に置かれた基礎部分です。
かなり綺麗に加工されており、当時の石工の技術の高さを知る事が出来ます。
山王廃寺の発掘調査では、「放光寺」と書かれた瓦が発見されており、「山王廃寺」と「放光寺」は同一の寺である可能性があります。 前日訪問した「山上碑」を作成した長利は、「放光寺」の僧侶なので、「山王廃寺」と「山上碑」が関係している可能性があります。
なお、「放光寺」は、1030年には寺院の体裁を成してないほど荒廃していたようです。
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