岡山県 岡山後楽園 ― 2022年05月05日
岡山後楽園は岡山藩主池田綱政が津田永忠に命じて造園した庭園です。
1687年に着工し、1700年に完成しますが、その後も藩主の好みで手が入れられます。
明治17年(1884年)に岡山県に譲渡されて一般公開されます。
造園を開始した頃は御菜園と呼ばれてました。 1695年頃から御後園と呼ばれはじめ、後楽園の呼び名になったのは一般公開されてからです。
1934年の水害、1945年の空襲で大きな被害を受けますが、江戸時代の絵図に基づいて修復されています。
いよいよ今回の長旅の最終目的地です。
岡山城は修繕工事により立ち入る事すらできず、100名城のスタンプはお隣の岡山後楽園に置かれているので、今回は岡山後楽園で良しとします。
蓬莱橋を渡った先にある、後楽園 四季彩の近くに臨時の駐輪場が用意されており、バイクはそこに停める事ができました。 普段は県立博物館の方にバイクを停める場所があるそうです。
庭園に入ると遠くに岡山城天守が見えます。
今回は工事中なのでここから眺めるのが限界でした。
次に来れるのは何時になるのか判りませんが、再訪できる事を信じましょう。
どこかの田舎のような風景なので、遠くから見ると芝生では無く水田の中を歩いてるように見えてしまいます。
鶴鳴館
江戸時代の建物は空襲で焼失してしまいました。
現在の建物は 1949年に山口県岩国市の吉川邸を移築した物です。
結婚式場や展示会として貸し出されているようで、普段は中には入れないのでしょう。
延養亭
鶴鳴館の隣にあるのが藩主の居間として使用されていた延養亭です。
江戸時代の物は空襲で焼失します。
現在の建物は 1960年に造園当時の「御茶屋御絵図」の間取りを参考に復元されました。
普段は一般公開されてませんが、年2回、内部が特別公開されています。
栄唱の間
延養亭の裏側にあるのが栄唱の間です。
能を好んだ綱政は、この栄唱の間の裏に能舞台を建てました。 能舞台を囲むように建物が配置されているので、周辺の建物は観客席的は役割もありそうです。
1732年、綱政の子、継政は城にあった古材を使用して能舞台を修築しています。 しかし、栄唱の間、能舞台は空襲で焼失します。
1958年に能舞台、1967年に栄唱の間が復元されました。 復元は、継政が修築した姿に行われています。
花葉の池
写真左に見える栄唱橋を渡って花葉の池の対岸に来ました。
池の奥に見えるのが栄唱の間や、延養亭など庭園の中心的な建物群です。
6~8月頃に白ハスが見頃になるようでが、5月ではまだ早いようです。
大立石
物凄く存在感のある巨石です。
元禄時代(1680 ~ 1709年)に巨大な花崗岩を約90個に分割して運び、庭園で元の姿に組み直しています。 このような巨石の運び方は初めてみました。
石を割った時の境目に、石垣とも違う独特な雰囲気を感じます。
茂松庵
二色が岡の中にある茶室です。
江戸時代は花葉軒と呼ばれており、明治に入ってから茂松庵に名称が変わりました。
造園した頃の二色が岡は山桜、楓、松で彩られた林でしたが、戦後に再建した時に杉の木立に変わりました。 戦災で焼失した建物も、1952年に復元されました。
廉池軒
池田綱政も良く利用していたようです。
1934年の水害で損傷しますが修繕され、戦災も逃れた貴重な建物です。
左奥に見えるのは売店で、そこで土産のだんごを買いました。
旅の最終日はのんびりムードです。
唯心堂、唯心山
唯心山は綱政の子、継政が作った高さ約 6m の人口の山です。
山の上からは岡山後楽園が見渡せます。 意図的か偶然かは判りませんが、後楽園の周辺は背の高い樹木で囲まれているので、周辺の高層ビルがほとんど視界に入りません。
唯心山の中腹には唯心堂があります。
流店
藩主が庭廻りの時に休憩の為に立ち寄った場所でした。
流店は戦災を逃れた貴重な建物の一つです。
2階建ての建物で1階には外壁がありません。 また、建物内に水路を通し、6個の石を配置した変わった建物です。
造園当時の流店は畳敷きでしたが現在は板張りです。 多分、外壁が無いので畳敷きでは維持管理が大変なので変更したのでしょう。
流店近くで菖蒲が綺麗に咲いてました。
花交の池
造園当初の花交の池周辺は山桜が植えられ、池の島には花が植えられていたようです。 近くには「花交」と言う建物があったようです。
綱政が見た花交の池は、今よりもっとカラフルだったのかも知れません。
その後、財政的な問題もあり建物は撤去され、手間のかかる花は植えられなくなったようです。
茶祖堂
花交の池の近くにある茶室です。
元々は利休堂と呼ばれていた茶室で、1887年に岡山藩家老で茶人の伊木三猿斎の下屋敷から移築しました。 しかし戦災で焼失し、1961年に再建されました。 栄西禅師を合祀した事から茶祖堂と名称が変わりました。
新殿
元々は「俳亭」と呼ばれていたようですが、1863年の絵図には「新御殿」と記載されています。
「新殿」と呼ばれるようになったのは明治時代に入ってからのようです。
近くには茶畑や紅葉が美しい千人の森があります。
岡山城天守が見えます。
良く見ると、天守周辺に修繕工事用の足場が組まれてます。
ここからでも望楼型天守である事が分ります。
岡山城天守は空襲で焼失しており、1966年に鉄筋コンクリートで再建された物です。
当時の藩主も、こんな感じで庭園を歩きながら天守を眺めたのかも知れません。
沢の池
岡山後楽園の中で一番大きな池です。
池には、中の島、御野島、砂利島の3つの島があります。
慈眼堂
1697年に綱政が池田家と領民の繁栄を祈願して建立しました。
入り口にあるのが仁王門で、大立石のような巨石が烏帽子岩です。
烏帽子岩も大立石と同様に36個に分割して運んだ後に元の形に組み立てられました。
本尊として観音像が安置されてましたが、後楽園が岡山県に譲渡された時、観音像は池田家に返却されています。
観騎亭
藩主が家臣の乗馬技術を見る為の建物でした。
この建物の裏側が馬場に面しており、今での長い直線道路が残されています。
この建物は、1934年の水害の影響は受けましたが、空襲による焼失は逃れました。
寒翠細響軒
背後の松林の緑と全面の沢の池の水面から名付けられました。
こちらの建物も、水害の影響は受けましたが、空襲による焼失は逃れました。
1934年の水害で修復した際、どの程度、江戸時代の姿を残しているのかが気になります。
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