茨城県 小田城 ― 2024年10月12日
小田城跡は、茨城県つくば市にある中世の城跡です。
築城年代は諸説あるようです。
源頼朝の信任が厚かった八田知家が 1189年頃に常陸守護に任命されたと考えられており、その時の居館が小田城の始まりと言う説があります。 八田氏は、知家から4代目の時和の頃から小田の姓を名乗ります。 小田氏は 1315年頃には守護職を完全に失っていたようです。
小田氏は南北朝時代に南朝方に付くと、1338年に南朝の重臣北畠親房を小田城に迎え入れますが、1341年に北朝方に開城します。 その後は北朝方に従い、功績が認められて旧領を回復します。
しかし、反逆者として追われていた小山若犬丸をかくまった為に討伐され弱体化します。
1531年頃には勢力を回復しますが、1556年に後北条氏の支援を受けた結城氏に攻められ落城、城は奪還できますが、1564年には上杉氏、佐竹氏に攻められ落城します。 城は奪還できましたが、今度は 1569年に佐竹氏に攻められ落城、その後、小田氏が城を取り返す事はありませんでした。
1602年に佐竹氏が移封になると小田城は廃城になります。
小田城跡歴史ひろば案内所 駐車場
小田城の見学は予定していた訳ではありませんが、筑波実験植物園訪問時に Google Map で偶然見つけ、わりと近かったので見学する事にしました。
バイクは小田城跡歴史ひろば案内所の駐車場に停めました。
駐車場は満車でしたが、案内所の向も臨時駐車場として停められるようです。
小田城跡歴史ひろば案内所
ここには小田城のパンフレットが置かれてるので、見学前に行くと良いと思います。
館内には小田城に関する資料が時系列に分かりやすく展示されていました。
なお、この建物がある付近も小田城の曲輪だった場所のようです。
この建物の裏にある、サイクリングコース沿いに少し歩いた所が小田城になります。
五輪塔
小田城跡歴史ひろば案内所から小田城に向かって歩いてる途中にありました。
ここに集められているのは、三村山極楽寺があった「尼寺入」付近の工事で出土した五輪塔のようです。 昔、極楽寺はここから少し離れた現在の「極楽寺公園」付近にありました。
常陸守護に任命された八田知家が極楽寺を再興したようですが、戦国時代に戦火で焼失しています。 多分、公園を整備した時に当時の五輪塔が出土したのでしょう...。
小田城の土塁と空堀が見えてきました。
昔、サイクリングコースが城の遺構の中を突っ切っていたようで、右奥に見えるトンネルはその時の物だと思います。 現在のサイクリングコースは城の土塁を回り込むように変更されています。
多分、後から史跡として保存する方針に変わり、その時にサイクリングコースを変えたのでしょう。
このトンネルは当時の入り口では無いので、曲輪の反対側にある東虎口から城内に入る事にします。
主郭を囲む土塁と空堀です。
発掘調査により、本格的な土塁や空堀が築かれたのは室町時代~戦国期( 15世紀中頃~末期)だと判明しています。 土塁や堀はその後もどんどん拡張され、堀幅は 20 ~ 30m、土塁の基底幅も 10 ~ 15m ほどの規模になります。
当時の堀は現在より.、もっと深かったはずです。
北虎口と土橋
土橋の両側は障子堀になっていました。
土橋は障子堀や橋の橋脚を埋め立て作られてました。
多分、最終期より前は土橋では無く、木橋だったと思います。 虎口の幅は 3.3m です。
明確な門跡は見つかっていないようですが、柱穴か礎石の跡と思われる掘り込みが見つかっています。 現在、土橋の先が空き地になっていますが、その付近は扇状の馬出だったようです。
北東側角部分
直角に曲がっている訳では無く、北東側の角部分は少し出っ張ています。
ここは鐘撞堂と呼ばれる櫓台があったようです。
出っ張っている以外にも、他の土塁よりも一段高くなっています。 ここから周りの状況を見はったり、横矢のような役割があったのかも知れません。
東曲輪跡
東虎口を馬出のように隠している曲輪です。
曲輪周辺の土塁跡も残っているようですが、家が建っていたので私有地かと思って奥には行きませんでした。 小田城主郭付近は、思ったよりも当時の状態が残ってますね。
東虎口
堀は木橋で渡っていたようで、複数の橋脚跡が見つかっています。 但し、東曲輪側は途中まで土橋だったようです。
門の礎石が一つ見つかっており、城門があった事が判明しています。
虎口の幅は 4m あり、他の虎口よりも幅が広いようです。
主郭内部で舗装されている道路のような部分がありますが、ここは通路があった場所を表しています。 当時の通路は小石で舗装されていたようで、側溝があった事も判明しています。
道路の一部は暗渠になっており、道路の下が水路のようになってました。
暗渠は板石を重ねて 20cm 四方の管になっていたようです。
水路ですかね?
曲輪内に休憩所が建ってますが、そこは掘立柱建物があった場所です。
建物は3回建て替えた痕跡が見つかっており、柱跡に合わせて四阿を建てています。
最終期の建物の大きさは、桁行 9.75m、梁行 6.3m でした。
井戸跡
四阿から少し離れた場所で見つかった円形の井戸跡。
井戸の上の部分の直径は 2.5m で、井戸の底に向かって 1.5m へと細くなる漏斗状です。
井戸の幅が 1.5m で垂直になった時の大きさが展示されています。
涼台
小田城主郭の南側角には土塁が一段高くなっている場所があります。
「涼台」と呼ばれてるようですが、説明が無かったので役割が分かりません。
高くなってい以外にも少し外側に張出しているので、見張り台のような物があったのかも知れません。 ここに登ると、南側の堀の様子が良く見えます。
東池跡
南北 32m、東西 13m の池です。 深さは 30 ~ 80cm で、池の底には小石が敷詰められてました。
周辺には庭石や築山などもありました。
近くに建物跡も見つかっているので、この辺りは庭園だったと思います。 しかし、佐竹氏が城主になると埋立てられたようです。
南西虎
虎口周辺に石垣が築かれてました。 発掘調査中なのか復元整備中なのかはっきりしませんが、石垣がはっきりと見える虎口はここだけでした。 他の虎口も石垣が使われていたのでしょうか?
石垣の幅は 3.2m で、曲輪の内側に向かってハの字型に広がる形状をしています。
この虎口からは門の跡も見つかっています。
南西馬出
南西虎の先にある大きな馬出です。
約 50m 四方の馬出で、周辺を空堀で囲まれています
南、東、西側は上幅 10m、深さ 3m の堀と、下幅 5m の土塁で囲まれていました。
本丸がある北側には土塁はありませんが、堀の上幅は 20m もありました。 本丸側とは木橋で繋がっていたようで、この馬出の東側にある曲輪とは土橋で繋がっていたようです。
本丸と南西馬出の間にある堀。 多分、空堀だったのでしょう。
涼台側を眺めている所です。 涼台が少し出っ張っている事が分ります。
それにしても大きな堀です。 それに、昔はもっと深かったと思います。
西池跡
本丸側に戻ってきました。
白砂の部分が西池があった場所です。 南北 13m、東西 17m の大きさです。
これは、戦国時代を再現した物で、それ以前はもっと大きな池だった事が分っています。
池があった事を考えると、城と言うより居館に近かったのかも知れませんね..。
幅が狭いので堀では無いと思いますが、本丸内をL字型に区画分けするかのように大きな溝があります。 一部、溝に沿って土塁のような物まであります。
本丸内を用途で区切っていたのでしょうか?
建物跡
本丸内には建物跡が多数見つかっており、一部では礎石も見つかっています。
礎石建物と言う事は、結構、立派な建物があったのかも知れません。
初期の小田城は居館に近い物だったので、その時の建物跡でしょうか?
池があったり、あまり城のような軍事施設には思えないですね..。
ここがサイクリングコースを作った時の土塁に空けた穴ですね...。
でも、思ったよりも保存状態が良い城でした。
100名城にも、続 100名城にも登録されていない城ですが、探すと良い城跡が見つかるのかも知れませんね..。
by mz80 [茨城県] [旅行] [その他の城] [コメント(0)|トラックバック(0)]
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