鹿児島県 志布志城(1)2019年05月04日

志布志城の築城年代は不明だが 1336年には存在していたようです。
南北朝時代、松尾城を拠点としていた南朝方の楡井(にれい)氏は肝付(きもつき)氏と協力して北朝方の畠山氏と戦いますが敗退、1351年に楡井氏は松尾城は落城します。 楡井頼仲はその後、畠山氏との争いで自害に追い込まれます。
1357年、島津氏との争いに敗れた畠山氏は豊後に敗走、島津氏の分家だった新納(にいろ)氏が志布志の領主になります。 長く志布志を支配していた新納氏ですが島津忠朝との関係が悪化、島津氏、肝付氏、北郷氏らに攻められた新納氏は 1538年に降伏して志布志を去ります。 島津氏が志布志に入ると肝付氏、北郷氏らとの関係が悪化、1562年には肝付氏に志布志を奪われます。 しかし、島津氏の反撃を受けた肝付氏は 1574年に降伏、その後、島津氏の家臣になります。 豊臣秀吉による九州平定後、志布志城は廃城になりますが、城としての機能が完全に失われたのは 1615年の一国一城令が出てからになります。

バイクは志布志観光駐車場に駐車しました。 志布志城に来たのは2回目で、前回は祭の開催と重なってしまいこの駐車場が使えなかったので登城は断念しました。
志布志城は内城、松尾城、高城、新城の四つで構成されてますが、新城は中学校の敷地、高城は入り口が不明だったので今回は内城、松尾城を散策する事にします。 まずは内城から散策を開始します。
志布志城・志布志観光駐車場

志布志城に入ると、とにかく雑草が多かったです。
埋蔵文化財センターの人の話では、草を刈っても数日で伸びてしまうらしく、ここの散策は秋や冬にした方が良いかも知れません。
志布志城・内城、入り口

矢倉場
大手口を見下ろす場所にある曲輪で矢倉場と呼ばれています。
防衛用の建物が存在していたと推測されており、発掘調査では実際に建物跡が見つかっています。 戦国時の遺構以外にも縄文時代の土器なども見つかっており、約 4000年前から人の居住地だったようです。
志布志城・矢倉場

矢倉場にあった新納時久の墓です。
時久は島津氏4代当主忠宗の四男で、新納院の地頭になると納氏を名乗ります。
畠山氏に納院高城を落とされた時久は、志布志を含む日向救仁院に移りますが、実質的な支配者は楡井氏でした。 この頃の新納氏の力はそれ程でも無かったようです。
志布志城・新納時久の墓

矢倉場から通路に下りて本丸を目指します。
シラス台地を削った志布志城はダイナミックで美しいです。 当時は木が生えてなかったはずで、堀底を歩かされると曲輪から狙い撃ちされるのでここは危険な場所だったと思います。
志布志城・本丸へ

本丸下段曲輪
本丸の下段に位置する曲輪で、発掘調査で見つかった柱の跡から2棟以上の建物が存在していたと考えられています。 火を使った跡や鉄滓(てっさい)、皿や陶磁器などが見つかっている事から居住空間や工房が存在していた可能性があります。
志布志城・本丸下段曲輪入り口

志布志城・本丸下段

ここから志布志港が良く見えました。
今日、乗って帰る「さんふらわあ」のフェーリーが停泊してますね...。
今回の旅は、前半は大雨に苦労しましたが、後半は天候が回復して助かりました...。
志布志城・本丸下段からの眺め

曲輪2上段
大手道を挟んで本丸下段の向側にある曲輪です。
発掘調査では複数の建物跡がみつかっているようで、比較的大きな建物が存在していた可能性があります。 国内外の遺物が出土しており、志布志は活発な交易が行われていたと思われます。 曲輪の周辺には土塁跡のような痕跡もありました。
志布志城・曲輪2上段入り口

志布志城・曲輪2上段

本丸上段曲輪
志布志城で一番重要と思われる本丸上段に虎口らしき場所を通過して入ります。 ここへは先ほどの本丸下段から入る事もできます。
説明が見当たらなかったのでここにどのような建物があったのかは分かりませんが、周辺は土塁に囲まれていました。
志布志城・本丸虎口

志布志城・本丸上段

本丸上段から下段を眺めた所。 かなりの落差があります。
志布志城・本丸下段

本丸北側にはもう一段高くなった曲輪があり、そこには三宝荒神が鎮座してました。
三宝荒神は新納氏が守護神として崇拝していたようです。
当時はここに櫓台があったらしいです。
志布志城・三宝荒神へ

志布志城・三宝荒神

本丸を出て中尾久尾に向かいます。
深く削られた堀底の通路を進みます。 シラス台地でこれだけ急斜面に削られると、この壁を登るのは難しいと思います。
志布志城・中野久尾へ

中野久尾(南側)
中尾久尾と呼ばれる曲輪は本丸北側に2つあり、ここは本丸に近い方の入り口です。
が、この先は背丈ちかい雑草が生い茂る状態だったので引き返す事にしました。
やはり、ここの散策は秋か冬ですね...。 北側にあるもう一つの中尾久尾を目指します。
中野久尾は南北朝の争乱が終わった後に拡張された曲輪のようです。
志布志城・中野久尾

中野久尾(北側)
曲輪の入り口はU字型にカーブした虎口になっています。
なんとか曲輪に入る事は出来ましたが、雑草の量が凄く、自由に散策とは行きません...。
2つある中尾久尾の曲輪はどちらも上下2段に別れていますが、境界線を確認している余裕はありませんでした。
変わった名前の曲輪で、最初「中野」という人の名前かと思ったのですが、「野尾(のくび)」の部分で区切るらしく、「細く、せまくなってる土地」と言う意味らしいです。
志布志城・中野久尾の虎口

志布志城・中野久尾

続いて、志布志城の一番北側にある大野久尾に向かいます。


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