広島県 郡山城(2)2022年05月02日

前回の続きです。

二ノ丸跡
現在位置を見失ってましたが「二之丸跡」の看板が見えて、ようやく現在位置が把握できました。
本丸の南側にある曲輪で、東西 36m、南北 20m の広さがあります。
周辺が石塁や石垣で囲まれていたらしいのですが、その面影は残って無かったです。
明治の毛利元就墓所改修工事の際、ここから石材を調達したらしいので、自然に崩壊しただけでは無いのかも知れません。
吉田郡山城・二ノ丸跡

本丸跡
ついに本丸に到着。 本丸は 35m 四方の広さがあります。
郡山城は、ここを中心に6本の尾根に放射状に曲輪が連なります。毛利元就は 1523年に郡山城を相続すると、大小 270段以上の曲輪からなる巨大な山城へと変貌させます。
吉田郡山城・本丸跡

本丸の櫓台
本丸の北側は櫓台として一段高くなっています。 ここが郡山城で一番高い場所です。
櫓台の長さは 23m、幅は 10m あります。 どんな建物だったのでしょうか? 個人的には物見台のような建物だったと思いますが、石垣で築かれた山城だった事を考えると、思ったよりも立派な建物があったのかも知れません。
吉田郡山城・本丸の櫓台

吉田郡山城・本丸の櫓台

三ノ丸
本丸から引き返し、二ノ丸南側にある三ノ丸に移動します。
三ノ丸は郡山城で最大の曲輪で広さは、東西 40m、南北 35m あります。
二之丸や御蔵屋敷と複雑な虎口で繋がっているはずなのですが、保存状態がそれほど良くなく、虎口跡なのか、後から出来た通路なのか判断が付かなかったです。
吉田郡山城・三ノ丸

輝元時代の改修で、三ノ丸は石塁で3つに区切られています。
その石塁跡も残ってはいますが、それほど保存状態は良く無さそうです。
石塁があった場所では大きめの石が散乱しています。
吉田郡山城・三ノ丸の石塁

御蔵屋敷跡側から三之丸の下段帯曲輪に移動すると、三ノ丸の石垣跡が見れます。
ただ、石垣は高さ 4m ありましたが江戸時代に崩された為、当時の姿は残ってません。 大き目の石が散乱しているので、石垣があった事が推測できる程度です。
帯曲輪から三之丸には、石垣を斜めに登る階段状の通路があったようです。
吉田郡山城・三ノ丸石垣

吉田郡山城・三ノ丸石垣

勢溜の壇跡
御蔵屋敷から麓に伸びる尾根上に十段の曲輪が連なるのが勢溜の壇です。 ここは本丸を守備する兵士が集まる場所だったようです。
勢溜の壇の全ての曲輪を合わせると、かなりの広さがあります。
また、この尾根から枝分かれする尾根にもそれぞれ曲輪が築かれています。
吉田郡山城・勢溜の壇跡

吉田郡山城・勢溜の壇跡

御蔵屋敷まで戻らなくても、勢溜の壇から下の遊歩道に下りる通路がありました。
下から勢溜の壇を眺めた所です。
この遊歩道が当時の登城路だとしたら、ここは勢溜の壇から丸見えで隠れる所がありません。
吉田郡山城・勢溜の壇跡

満願寺跡
三ノ丸の南西下段には満願寺がありました。
万願寺は、毛利氏が郡山城に入城する前の 740年からこの地にあったとの言い伝えもあります。
また、元就入城後に萬願寺で行われた法事の記録も残されているようです。
萬願寺は、毛利氏と共に広島、萩へと移り、現在は防府市にあるそうです。
この先に妙寿寺跡があるのですが、ぬかるみが酷くて先に進めませんでした。
吉田郡山城・満願寺跡

吉田郡山城・満願寺跡

満願寺跡から遊歩道に引き返して先に進むと尾崎丸付近が堀切のようになっています。
遊歩道を作った時の物なのか、築城時の物なのかは不明ですが、この遊歩道が人為的に尾根を分断して作られたのは間違いありません。
ここから左側の尾根を進むと尾崎丸があります。
吉田郡山城・尾崎丸付近

この堀切で分断された先が尾崎丸です。
当時はもっと深かったのかも知れません。
吉田郡山城・尾崎丸の堀切

尾崎丸
先ほどの堀切を渡った先が切岸のようになっており、その先に尾崎丸と思われる曲輪が見えます。
ただ、落差が大きく、行き方が分からなかったので、ここから眺めるだけにします。
もう少し、道案内が良いと助かるのですが..。
尾崎丸との名称は、毛利隆元が尾崎殿と称されていた事からのようです。
元就の息子、隆元がここに住んでいたか、守っていたと言う事でしょうか?
吉田郡山城・尾崎丸

常栄寺跡
郡山城の山裾に常栄寺がありました。 建物の位置関係などの詳細は不明のようです。
常栄寺は毛利隆元の菩提寺です。
1563年、隆元は謎の死を遂げます。 若くして亡くなった隆元の菩提を弔う為に元就は常栄寺を開山します。 毛利氏が防長(周防、長門)に移封された後、常栄寺は山口に移ります。
吉田郡山城・常栄寺跡

毛利隆元墓所
毛利元就の嫡男だった隆元の墓所です。
隆元は幼少期から大内氏に人質として出されますが、大内義隆から一文字拝領して隆元と名乗るなど、かなり優遇されていたようです。 隆元は 1541年に郡山城に帰還し、1546年に家督を相続相続します。 死因は病死とされますが、暗殺されたとの説もあるようです。
吉田郡山城・毛利隆元墓所

吉田郡山城・毛利隆元墓所

本城への遊歩道が思ったよりも急坂で、戻って来る体力が心配だったので今回は止めときました。
本庄は、元就が相続した時の原点でもある場所なので少し残念です。
石垣がもう少し残っていると良かったのですが...。


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