広島県 福山城 ― 2022年05月03日
福山城は水野勝成が 1619年に入封して福山藩が成立した時に築城された城で、一国一城令の後に築城された新しい城です。 勝成の入封は西国の外様大名を牽制する役割だったと思われます。
戦における腕っぷしの強さが強烈な勝成ですが領地運営も良好で、用水路を整備して新田開発したり、産業育成にも積極的でした。 良好な水野氏による領地運営でしたが、1698年、勝岑が2歳で亡くなると跡継ぎがいなくなった水野家は改易となります。
幕府直轄地から松平氏、阿部氏へと領主が変わりますが、阿部氏は領主運営に積極的では無かったようです。
明治の廃城令以降も天守などの建物は残っていたようですが、1945年 8月の福山大空襲で建物は消失しました。
都心部の城訪問は必ずバイクの駐車場に苦労します...。
福山城も、バイクが停められる場所が分からず、とりあえず広島県立歴史博物館の駐車場に向かいますが、「二輪車使用不可」でした。 仕方が無いので博物館の受付で停められる場所を聞いた所、止めて良いとの事だったので、博物館の駐車場に停めます。
広い公園なので、もう少しバイクの停め場所を考慮してもらえると助かります..。
ちなみに、この辺りは三ノ丸だったようです。
二ノ丸の石垣
ふくやま美術館の近くにある階段を登って福山城に向かいます。
階段横の石垣は二ノ丸の石垣だと思われます。
現在の階段部分や美術館は、城だった頃は内堀だった場所のようです。 今、私は堀底だった場所から石垣を眺めている感じになります。
本丸の石垣
続いて見えてきたのが本丸の石垣だった場所です。 福山藩は10万石なので、それほど大きな藩ではありませんが、それに対する福山城はかなり大きな城に思えます。
私が石垣を眺めている場所は二ノ丸だった場所です。 丸く石が囲んでいる場所は何でしょうか?
公園のオブジェでは無さそうですが...。
神辺三番櫓跡
阿部家の時代では外六番三重御櫓と呼ばれてました。
二之丸北西の隅櫓で、阿部家時代の呼び名から察するに三重櫓だったと思われます。
鐘櫓
水野氏後期の絵図には「釣鐘」との記載がるようなので、水野氏最後藩主、勝岑が亡くなる 1698年頃には存在していたと思われます。
太平洋戦争時の福山大空襲で焼けなかったようですが、既に原型を留めないほど損傷していたようです。
阿部氏の時代には柿ぶきか桧皮ぶきだったようですが、1979年に銅板ふきとして復元されました。
今でも自動的に時間を伝える鐘が撞かれているようです。
右手前には火灯櫓がありましたが現存してません。
御台所門跡
鐘櫓の左奥を見ると、石垣が少し不自然になっている場所があります。
ここには御台所門があり、ここは本丸に出入りする枡形虎口でした。
現在、門跡は石垣で塞がれており通行する事は出来ません
神辺二番櫓跡
阿部家の時代では外七番二重御櫓と呼ばれてました。
神辺三番櫓の南側にあった二重櫓で、寺社方の帳面が収められてました。
さらに南側には神辺一番櫓があり、二ノ丸の西側には神辺一番~三番の櫓が並んでました。
城の南西側から見ると、かなりの威圧感があったと思います。
伏見櫓
本丸南西隅の櫓で武器庫として使用されていました。
名前の由来は、築城時に伏見城から移築された櫓だからだと思われます。
修理の時に梁に残る刻字から伏見城から移築された事が立証されており、伏見城からの移築が立証されているのは、現時点ではこの建物だけのようです。
福山大空襲で焼かれずに残った貴重な建物です。
筋鉄御門
虎口を挟んで伏見櫓の向かい側にある門です。
こちらも福山大空襲で焼けずに残った貴重な建物なのですが、現在、外壁の漆喰塗り替え工事中で外観を見る事が出来ません。
福山城って、公園整備が進んでいる割には思ったよりも当時の建物が残ってますね。
ここから本丸に入ります。
本丸内から伏見櫓の近くまで行けます。
その途中にあるのは、多分、多門櫓があった跡だと思います。
左り奥に少し見えるのが伏見櫓です。
火灯櫓跡
伏見櫓の反対側を見ると、火灯櫓の跡があります。 右側に少しだけ映り込んでるのが鐘櫓です。
多分、この辺りは、櫓とそれを繋ぐ多門櫓で囲まれている感じだったと思います。
火灯櫓は阿部氏の時代は内九番二重御櫓でした。
当時の名称から二重櫓だったみたいですね。 多分、明治の廃城令の時に解体されたと思われます。
天守
絶賛工事中で、近寄る事も出来ません。
天守は明治の廃城令後も残っていたのですが、太平洋戦争の福山大空襲で焼失しました。
天守は 1966年に鉄筋コンクリート製で再建され資料館として使用されています。
今回の工事では耐震補強が行われ、当時の姿に近づける為に外壁に鉄板を張るらしいです。
鉄板張りの天守って珍しいです。 見たかったですが、ちょっとタイミングが悪かったようです。
当時の姿を残そうとしる取り組みは素晴らしいです。
御湯殿
本丸内は工事の関係でどうにもならないので、筋鉄御門に引き返して本丸の外から見学します。
本丸の石垣沿いに歩くと、石垣に木で足場を組む独特な建物が見えてきます。
この建物が御湯殿で、明治の廃城令以降も現存していたのですが、太平洋戦争の福山大空襲で焼失しました。 現在の建物は 1966年に天守と共に再建された物です。
内部は座敷部分と風呂(蒸風呂)で構成されていたようですが、詳細な資料が無く、座敷部分のみを復元し、風呂があった場所は台所やトイレなどに変更されているようです。
月見櫓
伏見城から移築された2階2層の櫓でしたが、明治の廃城令後に解体されたようです。
その後、貸会場として建物が建てられましたが福山大空襲で焼失。 1966 年に天守と共に鉄筋コンクリート製で再建されました。 一般に貸し出す事があったようですが、ここを宿泊施設として利用できるようにする案が検討されているようです。
鏡櫓
月見櫓の角を曲がると、奥に鏡櫓が見えてきます。
廃城後に取り壊されたようで、1973年に市民の寄付により鉄筋コンクリート製で再建されました。
展示室として使用されているようですが、訪問当日は外からの見学だったので詳細は不明です。
天守には入れませんが、100名城のスタンプは管理事務所に置かれてるので、無事スタンプが押せました。 本丸内が自由に歩けなかったのは残念ですが、スタンプが押せたので目的は達成です。
東上り楯門跡
立派な石垣です。 古地図と見比べると、この辺りが東上り楯門があったと思われる場所です。
今は階段を下りれば門跡の近くに行けますが、城だった時は手前の階段はありません。
石垣の谷間に櫓門があり、そこから二ノ丸に入ります。
奥の大きな石垣の上に東坂三階櫓、手前の石垣の上に鹿角菜櫓がありました。 かなり厳重に防御されています。 櫓は廃城令で取り壊されました。
鬼門櫓跡
二ノ丸北東の隅にある櫓で、阿部氏の時代は外三番三重御櫓と呼ばれてました。
三重櫓だったようで、先ほどの東坂三階櫓とは多門櫓で連結されていたようです。
ちょうど伏見櫓の反対側まで歩いてきました。
旧天守の礎石跡
福山城の天守は福山大空襲で焼失しましたが、天守台には礎石がのこされてました。
これは、天守を再建する際、天守の礎石跡を 180度向きを変えて天守の北側に移した物です。
修繕工事で思ったように見学出来なかったのは残念です。
行動が制限されている事もあり、想定よりも時間が余りました。
予定には無かったのですが、散策だけでも終わらせるとスケジュールが楽になるので、このまま高松城跡に行く事にます。
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