静岡県 韮山反射炉、江川邸2019年03月23日

韮山反射炉は世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成資産の一つです。 1840年のアヘン戦争以降、日本も列強諸国の軍事力を無視できなくなります。 1853年、ペリー来航により海防体制を強化する為、台場と反射炉の建設が決定されました。 実際に鋳造した反射炉で現存するのは韮山反射炉のみなので貴重な資産と言えます。

韮山反射炉ガイダンスセンター
韮山反射炉は 2011年に一度訪問しており、約8年ぶりの訪問になります。
当時はまだ世界遺産登録などされておらず、こんなに立派なガイダンスセンターもありませんでした。 十分な広さの駐車場も用意されており、周辺の雰囲気はだいぶ変わりました。
ただ、ガイダンスセンターの奥にある反射炉だけは以前と変わらず、そこだけが時間が止まっているようでした。
韮山反射炉ガイダンスセンター

韮山反射炉
ガイダンスセンターで一通りの資料を見た後、反射炉と8年ぶりに再会しました。
韮山反射炉は、幕府の命を受けた江川英龍によって 1857年に完成しました。 連双2基がL字型にならぶ為、見る角度によって煙突の数が変わります。 炉はぜんぶで4基あります。
炉の天井はドーム型になっており、熱を一点に集中させて鉄を溶かします。
韮山反射炉

鋳台
当時の遺構は埋め戻されており、この砂利の下にあります。
当時はこの砂利が敷き詰められている場所に鋳型が埋め込まれていました。
溶鉱炉にはそれぞれ2つの穴(出湯口)があり、溶鉱炉で溶かされた鉄がここに置かれた鋳型に流れ込む仕組みになります。
韮山反射炉・鋳台

鋳物鉄投入口
この穴から材料となる鋳物鉄を投入します。
溶鉱炉の内部は少し傾斜しており、溶けた鉄が先ほどの鋳台の方に流れ出します。
印象的な煙突の補強用鉄材ですが、当初はブロック状だったようです。 形状がトラスト状になったのは昭和の補修後のようです。
韮山反射炉・鋳物鉄投入口

アーチ状の大きい方が鋳物鉄投入口で、四角い小さい方が石炭投入口です。
石炭投入口の下はロストルと呼ばれる火格子があり、燃え尽きた灰が下に落ちる構造のようです。
韮山反射炉・鋳物鉄投入口、石炭投入口

焚所風入口、灰穴
石炭投入口の下の部分。 燃焼に必要な空気の投入口でもあり、灰が落下する場所でもあるようです。 ここの上で石炭が燃えていると言う事のようです。
韮山反射炉・焚所風入口、灰穴

青銅製29cm臼砲
1873年に韮山反射炉から東京の陸軍兵器本廠に移されたが、1909年に里帰りしたようです。
韮山反射炉建造前に江川邸で試作された物らしいです。
韮山反射炉・青銅製29cm臼砲

韮山古川
当時の技術では筒状の鋳造は出来なかったらしく、後からくり抜いて大砲を仕上げていたそうです。 その作業は水車の地からを利用しており、韮山古川にはその為の水車小屋が設置されていました。 韮山古川も、取水した場所から水車が配水した場所までの 144m は世界遺産の資産範囲のようです。
水車で鉄をくり抜くには相当な時間が必要なはずなので、生産性はそれほど良く無かったとは思います。
韮山反射炉・韮山古川

江川英龍像
この人が韮山反射炉の生みの親である江川英龍です。
韮山反射炉の建設には佐賀藩の協力もありました。 佐賀藩は既に反射炉による大砲の鋳造に成功していました。
英龍は、品川の台場建設の総指揮も担当しています。 昨年5月に品川台場を訪問していますが、関連性に気が付きませんでした。 実際に足を運んで見ての新たな発見でした。
この像の邸宅が保存されているので、そちらに移動しましょう。
韮山反射炉・江川英龍像

江川邸(韮山役所跡)
韮山反射炉から少し離れた場所にあるのが代官であり、韮山反射炉を造った人でもある江川英龍の住居です。 歩きだと、ちょっと距離があるかも知れません。
江川氏は清和源氏の流れをくみ、1156年の保元の乱以降に韮山に移ってきたようで、その後、この地の豪族として力を付けます。 北条早雲が伊豆に進出するとその家臣になります。
北条氏が滅ぶと徳川氏の家臣となり、代官として代々この地を治めます。

江川邸と韮山反射炉は共通券があるので、両方訪問する場合はその方がお得です。
江川邸もちゃんとした駐車場が整備されているのでバイクもそこに駐車します。
江川邸・駐車場

表門
券売所と通って一番最初に現れる建物です。
1697年に建てられた薬医門で、1823年に一度補修されているようです。
江川邸・表門

主屋
主屋の原型となる建物が建てられたのは関ケ原の戦い前後(1600年頃)と考えられていますが、室町時代と思われる部材も見つかっています。 何等かの建物がもっと前から存在していたのかも知れません。
江戸時代に入ってからも増改築が何度か行われて現在の姿になったようです。
内部には江川家の資料などが展示されています。
江川邸・主屋

主屋には土間側から入ります。
土間は広々としており、上を見上げると煙を逃がす為か天上板はありません。 屋根裏まで筒抜けの状態です。 屋根裏は、結構、複雑な構造になっています。
江川邸・主屋・土間

江川邸・主屋・土間

西蔵
幕末の頃に建てられたようなので、主屋と比べるとだいぶ後の建物のようです。
屋根の形が独特で、他で見た事が無い形状をしています。
将棋の駒のような形をしている事から「駒蔵」とも呼ばれていたそうです。 案内には「肥料蔵」とも書かれいたので、肥料などが保管されていたのかも知れません。
江川邸・西蔵

江川邸・西蔵

南米蔵、北米蔵
南米蔵は明治25年(1892年)、北米蔵が大正8年(1919年)に建てられた米蔵です。
どちらも幕末以降に建てられた蔵なので、見た目よりも新しい建物のようです。
江川邸・北米蔵、南米蔵

武器蔵
幕末に建てられた蔵で銃や弾薬、火薬の材料などが保管されていたようです。
幕末に新たに武器蔵を建てたと言うのは、情勢の不安定さが影響しているのでしょうか?
江川邸・武器蔵

井戸
江戸時代以前に掘られた井戸のようで、名水だったらしく、醸造にも使用されていたようです。
武家屋敷で醸造と言うのがイメージしにくいのですが、江川家は 1688 ~ 1703年頃に江川酒と呼ばれる酒を造っていたそうです。 販売用? 自家用?
江川邸・井戸

パン祖の碑
お酒よりもイメージが付きにくかったのがこの「パン祖の碑」です。
江川英龍は 1842年に兵糧として乾パンを製造したそうです。 なるほど、道楽でパンを造ったのでは無く軍事目的だったのですね...。 1952年、静岡県パン協同組合から「パン祖」の称号が与えられ、この記念碑が建てられたそうです。
江川邸・パン祖の碑

反射炉や品川台場の建設に、乾パンの製造....。 江川英龍の多才さには驚きました。
韮山と品川台場に繋がりがあるなど、発見の多い訪問でした。
江川邸・花