熊本県 人吉城(2)2019年05月03日

前回の続きです。

球磨川に沿うように築かれた土塁です。 内側から見ると土の部分が多いですが、外から見ると総石垣のように見えます。
西南戦争で西郷軍は三ノ丸に大砲も設置し、対岸の官軍を砲撃しました。
当時は、この土塁の上を砲弾が飛んでいたのかも知れません。
人吉城・土塁

外側から見た所。 
昔は石垣の上に長櫓があったようですが、1862年の火災で焼失しました。
櫓は再建されず、代わりに石垣をさらに高くして槹出工法による武者返しを設置しました。
この工法が使われた場所は少なく、品川台場や五稜郭などの西洋式城郭でしか使用されていない珍しい物です。
人吉城・武者返し

堀合門
城主の館の裏口的な出入り口でした。
廃藩置県後に門は新宮家に移築され、人吉城唯一の現存建物と言われてます。
現在の門は発掘調査、現存する門、古い絵図などを参考に 2007年に復元された物です。
人吉城・堀合門

間米蔵跡
水ノ手門周辺には3つの米蔵がありました。 ここはそのうちの一つである間米蔵があった場所です。 これらの蔵は船で運ばれた年貢米が貯蔵された蔵だと思います。
米蔵は 1862年の火災で焼失しますが、その後再建されます。
廃藩置県後は払い下げされて建物は撤去され、疎石跡のみが残ります。
人吉城・間米蔵

人吉城・水ノ手門跡
球磨川から荷物を運ぶ為に造られたと思われる門です。
人吉城には7カ所の船着き場があり、その中で水ノ手門は最大の物です。
中川原に常設の橋が架けられた 1607年以前は毎年ここに仮の橋が架けられました。
人吉城・水ノ手門跡

人吉城・水ノ手門跡

大村米蔵跡、欠米蔵跡
水ノ手門周辺にあった3つの米蔵の一つで、大村米蔵の礎石跡です。 欠米蔵は大村米蔵の隣にありました。 発掘調査では、「御用米」などの木札も見つかっているようです。
場所的には堀合門の隣になります。
人吉城・大村米蔵跡、欠米蔵跡

御下門跡
本丸、二ノ丸、三ノ丸へ登城する唯一の門でした。
石垣の上には櫓門があり、門の先には門番所がありました。
人吉城・御下門跡

人吉城・御下門跡

櫓門の隣にあった石垣。
櫓門を見下ろすような高さです。 櫓でもあったのでしょうか?
人吉城・御下門跡

中御門跡
二ノ丸の主となる出入り口になります。
ここはかなり厳重に守備を固めています。 迫力がありますね...。
人吉城・中御門

人吉城・中御門

二ノ丸にはもう一つ裏口の様な出入り口があります。
人吉城・二ノ丸入り口

二ノ丸跡
戦国時代はここより南側の山にある上原城が主城となる山城で、その頃ここは内城と呼ばれる婦女子の生活空間でした。 1589年に長毎による築城が開始されると二ノ丸として改築されます。 ここには6棟の建物からなる二ノ丸御殿がありましたが、相良神社の所にも城主の居館がありました。 二ノ丸御殿には居住空間が無かったって事?
人吉城・二ノ丸

本丸跡
人吉城には天守はありませんでした。 本丸には 1626年に護摩堂が建てられており、宗教的な色合いが強い場所だったようです。
人吉城・本丸跡

於津賀社跡
三ノ丸の下段にある曲輪で、於津賀(おつが)社があった場所です。
於津賀社は初代相良長頼が入国する前に人吉城の城主だった矢瀬主馬祐を祀る御霊社でした。 建立したのは第2代頼親です。 現在は礎石のみ残ります。
ここからは球磨川の対岸が良く見えるので、西南戦争で西郷軍が砲撃したのはこの辺りなのかも知れません。
人吉城・於津賀社跡

三ノ丸跡
三ノ丸の主となる出入り口はこの虎口かと思います。 構造的には三ノ丸を通過しなくても二ノ丸、本丸に行けるようです。 これだけ広大な三ノ丸ですが、2棟の塩蔵、井戸、長屋だけの広場だったようです。
人吉城・三ノ丸虎口

人吉城・三ノ丸

三ノ丸の脇にある階段から城主の館があった方向に下ります。
人吉城・三ノ丸周辺

人吉城は2度の火災や地震による被害、「お下の乱」と呼ばれる内乱など、波乱の多かった城のようです。 特に 1862年の寅助火事の後は財政的にも苦しかったようで、江戸末期には同じように財政難に苦しむ藩は少なくなかったはずです。 廃城後も西南戦争の戦場になるなどと苦労の絶えない城でした。