三重県 多気北畠氏城館 ― 2023年10月08日
多気北畠氏城館は、三重県津市にある続100名城の一つです。
南北朝時代に南朝方の重臣だった北畠親房の三男、顕能を祖とする多気北畠氏の居城です。
築城者、築城年代は不明ですが、14 ~ 15世紀頃だと考えられています。
1342年に田丸城が落城した時に、北畠氏が多気に拠点を移したとの説があるので、その頃なのかも知れません。 1569年、北畠具教が織田信長に降伏、1576年には元家臣に殺害され廃城になります。
駐車場
国道 422号から北畠神社に行く場合、北畠神社の裏側の細い川の手前にある坂道を登った先に駐車場があったので、そこにバイクを停めさせてもらいました。 JA の駐車場を使っている記事も見かけますが、駐車場に関してはもう少し案内が欲しい所ですね...。
今回は神社裏に駐車したので、神社の裏側から参拝する感じになります。
礎石建物跡
北畠氏城館からは、建物の礎石跡が多数見つかっています。
案内板にあったのは2間×2間の小さな物だったらしいので、この広さに対しては不釣り合いな印象を受けます。 近年に整地化されたので無ければ、もっと多くの建物があったのかも知れないですね...。 見つかった小さなな建物は、礎石を使って柱を立てている事から、格式が高い建物だった可能性があるそうです。
留魂社
北畠神社の末社のようです。
祀られているのは北畠具行、満雅(3代国司)、具教(8代国司)の他、農民を含めた戦国の世の戦没者などです。 具行は後醍醐天皇の倒幕計画に加担した為に処刑された人物です。
満雅は、鎌倉公方・足利持氏が将軍職争いで足利義教と対立した時、持氏側に付いて討ち死にしています。 具教は織田信長に攻められた後に誅殺されています。
逆に、よくそこまで生き残ったなと言った印象ですね..。
日本最古の石垣
発掘調査により、この辺りの地下から長さ 15m以上、高さ 3m の石垣が見つかっています。
15世紀前半の石垣と考えられており、中世の城や館で作られた石垣としては日本最古の物にあります。 石垣に続くスロープ状の張り出し部分も見つかっているそうです。
見つかった石垣は保存の為に埋め戻されたのだと思うので、残念ならが見る事は出来ません..。
北畠顕家像
北畠顕家は、後醍醐天皇の側近だった北畠親房の子です。
足利尊氏が建武の乱を起こした時、新田義貞や楠木正成らと共に戦い尊氏を撃退しています。
しかし、尊氏が再度攻め上った時に高師直に打ち取られ、若くしてこの世を去ります。
多気北畠氏は、顕能が祖との話があったので、顕家像は「なんでだろう?」の違和感はありました..。
入り口跡
北畠神社の方まで来ました。
発掘調査で奥の柵の手前付近から石垣の入り口跡が見つかっています。
入り口の大きさは、幅 4.2m、奥行 4.8m、高低差 2.6m になります・
どうも、今の神社の地下には当時の石垣があり、この柵の手前が当時の大手口だった場所のようです。 多気北畠氏城館の場合、当時の遺構は地下に埋もれている感じのようですね...。
北畠神社
現在は、多気北畠氏城館があった場所に北畠神社が鎮座しています。
御祭神は、北畠顕能で、親房(顕能の父)、顕家(顕能の兄)が配祀されています。
神社は、1643年に北畠氏の末裔だった鈴木孫兵衛家次がこの地に小さな祠を建てて北畠八幡宮と呼んだのが始まりのようです。
朱色と樹木の緑が美しい神社です。 ただ、訪問したタイミングが悪く、大掃除中だったので静かに参拝とは行きませんでした...。
社務所
早朝でしたが、続100名城のスタンプは社務所の前に置かれてました。
無事、スタンプを押します。
本当は、北畠氏館跡庭園を見学したかったのですが、大掃除中で見学できる状態なのか分からなかったので今回は諦めました。
多気北畠氏城館のほとんどは地下に埋めてますが、この庭園は埋もれずに残った物らしく、1518年に造園されたと伝わります。
最後に参道を見て駐車場に戻ります。
良い雰囲気の神社です。
バスも通っているようですが、運行されているのは月水金のみでかつ、本数が非常に少ないので車以外で行くのは難しいでしょう..。
駐車場をもう少し分かりやすくして欲しいですね...。
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