山口県 萩城(2)2022年05月01日

前回からの続きです。

志都岐山神社
階段を登った先にあるのが志都岐山神社です。
1878年(明治11年)、豊栄・野田両神社の遙拝所が建立されたのが始まりです。
指月神社に改名後、1882年に現在の志都岐山神社に再度、改名されました。
御祭神は、毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳の5柱です。 元就から5代と言う訳では無いので、多分、毛利家の中で功績の高かった人物を祀っているのだと思います。
他、初代~12代までの萩藩主も祀られています。
萩城・志都岐山神社

拝殿の前に舞殿があります。
どことなく配置が鎌倉の鶴岡八幡宮に似ています。
毛利家の家紋が印象的です。 ここだけ、ちょっと雰囲気が違います。
旅の安全を祈願して先に進みます。
萩城・志都岐山神社

萩城・志都岐山神社

萩城・志都岐山神社

東園跡
東園は、六代藩主宗広(1725 ~ 1789年)が造園した回遊式庭園で、以降、藩主の憩いの場として使用されました。 萩城は、本丸を囲むように二之丸が配置されており、ここは二之丸だった場所です。 郭の境目がはっきりしなかったので、ここは本丸だと思ってました。
大正時代に萩城跡を公園化した時、庭園も多少手が入ってる可能性がありそうです。
萩城・東園跡

萩城・東園跡

潮入門跡
東園跡を少し東に移動すると大きな土塁に突き当たります。 土塁の先は日本海です。
土塁に沿って歩くと切れ目が見えてきます。
ここには潮入門と呼ばれる櫓門があったようです。 石垣の隙間の幅が広いので、かなり大きな櫓門だったと思います。 ここが日本海から二之丸に入る入り口だったのでしょう。
萩城・潮入門跡

石垣の上の土塀が復元されています。
多分、こんな感じの土塀が延々と連なっていたのだと思います。
萩城・潮入門跡

萩城・二之丸の石垣

思ったよりも海が近いです。
波がほとんど無かったので、海と言うより湖のようでした。
断崖では無い浜辺は容易に近づく事ができます。 この辺りは防御的に弱点だったのかも知れません。 浜辺の周辺は厳重に石垣で防御されています。
萩城・日本海

萩城・日本海

海岸を歩いても良かったのですが、石垣の内側を歩く事にします。
しばらく進むと道が直角に折れ曲がります。
古い絵地図を見ると、二之丸の東側は南北に分断されています。 恐らく、ここが二之丸を分断している場所だと思います。 古い絵地図には、右に曲がった所に門が描かれています。
左側の土塀には「銃眼土塀」の説明がありました。 この土塀の狭間は、銃で敵を狙う事を想定していたのかと思います。
萩城・紙矢倉跡付近

紙矢倉跡
突き当たりに「紙矢倉跡」の説明がありました。
古い絵図を見ると、この辺りに二層櫓が描かれています。
「矢倉」は「櫓」の事だと思いますが、「紙」って何から取った名称なのでしょうか..。
萩城・紙矢倉跡

昔、門があった所を出ると、その先に内堀が現れます。
この内堀は本丸の東側を守る物で、堀と石垣の先が本丸です。
立派な内堀です。 海水でしょうか?
萩城・内堀

二之丸の東側にある石垣に沿って歩くと石垣の切れ目が見えてきました。
幅が非常に狭く、門があった感じには見えませんが、古い絵図には櫓が描かれているので、その櫓の下でしょうか?
最後に、もう一度海岸を眺めて行く事にします。
萩城・海岸へ

萩城・二之丸の石垣

東門跡
大きな虎口跡が見えてきます。 ここが東門だった場所です。
ここの付近には時打矢倉がありました。
かなり大きな石を使った立派な石垣なので、ここも南門同様、重要な出入り口だったのでしょう。
ここから出てしまうと、毛利家萩屋敷長屋に行くのに遠回りになります。 入ってきた時と同じ南門から萩城の外に出ます。
萩城・東門跡

厚狭毛利家萩屋敷長屋
萩城のチケットとセットで見学する事ができます。 バイクを停めた、指月第一駐車場のすぐ隣です。
毛利元就の後を継いだのは五男元秋でした。 元秋は厚狭に知行地を持つため、厚狭毛利と呼ばれました。 広大な屋敷がありましたが、現存するのはこの長屋のみです。
解体修理の時に見つかった棟札から、この長屋は 1856年に建てられた事が判明しています。
萩城・厚狭毛利家萩屋敷長屋

武家屋敷の長屋は何度か見てますが、毎回思うのが「質素」です。
萩城・厚狭毛利家萩屋敷長屋

世界遺産である萩の街並みは、他にも見所があるのですが、今回は100名城巡りを優先するので次の目的地、津和野城に移動する事にします。
萩に再訪できる事を信じて先に進みましょう。