富山県 富山城2022年08月11日

富山城は 1543年に越中守護畠山氏の守護代だった神保長職によって築城されたと考えられていますが、それよりも前の遺構も見つかっているようです。
1560年に上杉謙信が侵攻してくると、長職は先ほど訪問した増山城へと逃亡します。 
その後は、上杉氏、一向一揆勢、織田氏による奪い合いとなり、織田信長の家臣、佐々成政が富山城の城主となります。
織田信長の後継者となった豊臣秀吉と対立した成政は、秀吉に攻められ降伏。 1585年、富山城は破却されます。
その後、加賀藩主となった前田利長によって富山城が再建され、利次が分家して富山藩が成立すると仮の居城として富山城が使用され、そのまま幕末まで使用されます。

都心部の居城を訪問する時はいつも事なのですが、富山城もバイクを停める場所に苦労しました。
電話して確認した所、富山市営城址公園駐車場にバイクも停められる事が分ったので、そこにバイクを停めました。 地下駐車場はバイクが使用できない場合も多いので助かりました。

千歳御門
地下駐車場を出て、すぐ隣の千歳御門から富山城に入ります。
富山藩10代藩主、前田利保の隠居所だった千歳御殿の正門として 1849年に建てられた門です。
千歳御殿はここよりも東側にありましたが、富山市に寄贈され、2008年に現在の場所に移築されます。
富山城・千歳御門

富山城・千歳御門

明治時代の廃城令により廃城となった後、富山城は県庁舎として使用されます。
戦後は進駐軍の住居が建てられました。
現在は富山城址公園として使用されています。 左側に見えるのが続100名城のスタンプが置かれている富山市郷土博物館です。
富山城

富山市郷土博物館
1954年に建てられた鉄筋コンクリートの模擬天守で博物館として使用されています。
望楼型三重四階の天守と二重二層の小天守を連結した外観で、彦根城や犬山城の外観を参考にしているそうです。 戦後復興のシンボル的な存在だったようです。
無事、続100名城のスタンプを押して城内の見学を進めます。
富山市郷土博物館

富山市郷土博物館

富山城

模擬天守ですが、石垣は当時の物のようです。
鉄門付近では、権力の象徴となる非常に大きな石が使用されています。
富山城の石垣は、利長が富山城を再建した時に整備され、利次が居城として使用した時に改修されたと考えられます。 富山城は土塁中心の城郭だったようで、石垣があったのは、鉄門、搦手門、二階櫓門の3カ所だけだったようです。
鉄門付近の石垣は加工石が使われた布積みなので、割と新しい年代の石垣に思えます。
富山市郷土博物館

富山城・石垣

門付近からちょっと横に外れると自然石を使た野面積み。
多分、この違いは修復年代の影響かも知れません。
富山城・石垣

水堀
富山城の水堀は、廃城後にほとんど埋められてしまいました。
本丸南側に内堀の一部が残る程度です。
この規模を見る限り、当時は立派な水堀だったと思われます。
富山城・水堀

旧県会議事堂跡
1909年に完成した旧県会議事堂は洋風な建物で、1935年に現在の庁舎に議事堂が移ると会議室や図書館として使用されました。
建物は、1945年の富山空襲で焼失してしまい、後に基礎部分が発掘されました。
基礎部分を見た感じでは、煉瓦作りの建物だったようです。
富山城・旧県会議事堂跡

本丸石垣の石材
2006年に本丸の石垣を解体修理した時に取り換えられた江戸時代の石材です。
石垣に使われていた割には、丸みを帯びてます。
これでは上手く積み上がらないような気がします。 展示用に角を取ったのでしょうか?
富山城・本丸石垣の石材

結構、広い本丸です。
ここに御殿があったのでしょうか?
富山藩は10万石でしたが、財政的には厳しかったみたいです。
火災や地震の被害などもあったみたいなので、藩の運営は大変だったでしょう。
富山城

戦災復興記念像
1945年8月2日、富山市は空襲により一夜にして焼土と化します。
被害は甚大で、死者約2700人、重軽傷者約8000人にもなりました。 地方都市の空襲としては、広島、長崎への原爆投下を除けば最大級のものでした。
この像は、恒久的な平和を願い、1974年に建立されました。
富山城・戦災復興記念像

松川
富山城北側には神通川が流れており、天然の水堀として機能していました。
明治以降、神通川は改修工事され、現在の松川はその名残です。
どうやら、現在の富山県庁くらいまで川幅があったようですが、こんなに川幅を狭くして大丈夫な物なのでしょうか...。
訪問時は内堀の名残かと思ったのですが、れっきとした川でした...。
富山城・松川

景雲橋
富山城址公園の北側には池があり、そこには景雲橋がかかります。
この辺りが本丸と神通川の間にあった内堀の名残らしいです。
ほとんど原型を留めてませんね...。
富山城・景雲橋

前田正甫像
富山藩二代目藩主だった前田正甫像です。
新田開発や産業育成で富山藩を成長させた人物です。 有名な「富山の薬売り」の基礎を築いたのも正甫です。 正甫が参勤交代で江戸城にいた時、腹痛を訴えた大名に常備薬「反魂丹」を進めた所すぐに治りました。 「反魂丹」は諸国にも広く知られる事になり、薬を行商させたのが「富山の薬売り」の始まりとの言い伝えがあります。
富山城・前田正甫像

土砂崩れにより鳥越城に行けませんでしたが、もし訪問してたら時間的に厳しかったかも知れません。 自然災害で登城出来なかったのは、基肄城に続いて2ヶ所目です。
場所的に再訪は大変だ...。