奈良県 大和郡山城2023年10月07日

大和郡山城は奈良県郡山市にある続100名城の一つです。
1580年に織田信長が大和一国で城を一つにする為に、新たに築城した大和郡山城以外を廃城にさせました。 大和郡山城の前身と呼べるような城は、既に存在したのかも知れませんが、ここでは 1580年を大和郡山城の築城年としておきます。  築城した大和郡山城の城主は筒井順慶になります。
1584年に順慶が亡くなると、翌年に豊臣秀吉の弟、秀長が大和郡山城の城主となり、大規模な城の拡張を行います。
関ヶ原合戦の後は城主だった増田長盛が追放され、大阪の陣が終わった頃に大和郡山城はかなり荒廃していたようです。
1615年に水野勝成が城主になると城は復興され、その後は徳川家の譜代大名が城主を務めます。
1724年からは柳沢氏が城主となり明治維新を迎えます。

駐車場
追手門付近に専用の駐車場がありますが、それほど広くはありません。
周辺に他の駐車場が見当たら無かったので、駐車スペースには注意した方が良いかも知れません。
偶然出会ったボランティアの人の話では、普段はここまで混まないとの事でしたが、訪問時は満車状態でした。 満車でも、バイクであれば数台は駐車場の隅に停められます。
大和郡山城・駐車場

追手向櫓
大和郡山城の建物は廃城後に売却されたので、建物は石垣しか残ってません。
しかし、昭和に入ってからすこしずつ建物が復元されています。
追手向櫓もその一つで、1987年に復元されました。
軽く調べた感じでは、秀長の時代に近い状態を目指して復元したようです。
大和郡山城・追手向櫓

大和郡山城・追手向櫓

追手門
1953年に復元された追手門です。
櫓門の他に、先ほどの追手向櫓に繋がる多門櫓も再現されています。
当時の外観を意識しての復元なのでしょう。 この枡形虎口周辺は迫力があります。
駐車場や追手門から見えなかったので見逃したのですが、城址会館の裏の方には追手東隅櫓も復元されています。 先に続100名城のスタンプを押しに行きましょう。
大和郡山城・追手門

大和郡山城・追手門

柳澤文庫
柳澤家から寄贈された大和郡山城に関する資料が展示されています。
続100名城のスタンプは、この資料館の玄関先に置かれていました。
旧郡山藩主だった柳澤伯爵の東京の邸宅を郡山に移築した建物のようです。
住居の一部を開放して資料展示したのが柳澤文庫の始まりのようで、 1960年に土地や資料が寄贈され、柳澤文庫が発足しました。
柳澤文庫がある場所は、昔は二之丸だった場所のようです。
大和郡山城・柳澤文庫

極楽橋
2021年に復元された曳橋です。
橋脚が木造に見えますが、中には鉄骨の芯が入ってるようです。
強度や資材費、外観を意識すると、そのような建て方が現実的なのかも知れません。
また、基礎の下には礎石などの遺構が残されており、それらを保護しながら建築するのは普通に橋を架けるより大変な作業だと思います。
大和郡山城・極楽橋

大和郡山城・極楽橋

極楽橋から堀を眺めた所です。
右側が二之丸側の石垣で、左側が本丸側の石垣です。
意図な掻い掘りなのか、単なる水不足なのかは不明ですが、一応、内堀は水堀のようです。
本丸側の石垣は野面積みですが、かなり高い石垣だと思います。 秀長の時代の石垣でしょうか?
大和郡山城・極楽橋からの眺め

竹林門跡
この先の橋を渡ると二之丸になります。
情報が少ないのでどんな門だったのかは分かりません。 ただ、石垣が立派ななので、個人的には櫓門を想像しています。 ただ、左側の石垣の上には台所櫓があったようなので、ちょっと想像がしにくい場所です。
大和郡山城・竹林門跡

台所櫓跡
竹林門跡の手前を左に入り、振り返った所です。
多分、左の石垣の上辺りが Google Map に記載されている「台所櫓跡」の場所だと思います。
今、写真をとっている通路のような場所は多門櫓があったようなので、当時の姿とはだいぶ変わっているのかも知れません。
大和郡山城・台所櫓跡

弓櫓跡
竹林門跡から本丸の外に出て、堀沿いに城の南西端にきました。
多分、奥に見える石垣の上に弓櫓があったのだと思います。
こちらも、どんな櫓だったのか情報が無くて不明です。
この辺りの石垣は打ち込み剝ぎみたいですね..。 本丸周辺と作られた年代が違うのでしょうか?
大和郡山城・弓櫓跡

表門跡
来た道を竹林門跡の方に引き返すと、道路脇に「表門跡」の碑を見つけました。
どうやら、この辺りに表門があったようです。 左側は郡山高校の敷地です。
縄張り図を見て無いので分かりませんが、大和郡山城は梯郭式か輪郭式の縄張のように思えます。
1906年に、堺県師範学校分局郡山学校が二之丸に建てられました。 その学校が郡山高校の前身のようなので、かなり歴史の長い学校のようですね...。
大和郡山城・表門跡

中仕切門付近
この付近に中仕切門があったようですが、多分、手前を横切る通りを遮るような感じに門があったのだと思います。 ただ、門があった痕跡がまったく残って無いので、どんな門だったのか想像するのは難しい状態です。
通行止めになっている先が新宅郭のようですが、公園の整備工事の為に入れませんでした。
この辺りに大きな駐車場ができるみたいですね...。
大和郡山城・中仕切門付近

松蔭門跡
更に西に進むと現れるのが松蔭門跡です。
石垣が残されており、ここに立派な門があったのは想像ができます。
きっちりとした加工ではありませんが、ここの石垣は切込剝ぎに近い積み方です。 年代的に新しい石垣なのかも知れません。
大和郡山城・松蔭門跡

街の中心にある城の場合、水堀が埋め立てられる場合が多いのですが、大和郡山城の場合は、比較的、水堀が残されているようですね。
本丸から離れてくると、だいぶ石垣の積み方が変わりますね...。
大和郡山城・松陰堀

麒麟郭跡
ここまで歩いてきましたが、結局、工事中で中に入れません...。
更地なので、奥に天守台が見えます。 これだけ見渡しが良いのも今だけかも知れません...。
工事中では仕方が無いので引き返しましょう...。
公園整備にかなり力を入れてるようなので、数年後に来るとだいぶ印象が変わってるかも知れません。
大和郡山城・麒麟曲輪跡

柳澤神社
竹林門から本丸に入り、本丸の中心部分に行くと、柳澤神社の社殿が見えてきました。
本丸は神社になってるみたいですね..。
御祭神は柳澤吉保です。 柳澤家で最初に郡山城の城主になった吉里の方かと思ったのですが、祀られているのは柳澤家の基礎を築いた父親の方でした。 多分、柳澤家の基礎を築いた功績と言った所でしょう。 創建されたのは  1880年なので明治時代に入ってからです。
大和郡山城・柳澤神社

大和郡山城・柳澤神社

天守台
上面が 16 × 18m、下面が 23 × 25m あり、4.5m の付け櫓台が付く天守台です。
東側にある階段状の登り口は明治時代に付けられた物です。
天守が描かれた絵図が一つも存在せず、天守が実在したのかは不明です。 しかし、発掘調査により、礎石列や金箔瓦が出土した事から豊臣政権時代に 1階が 7 × 8間(約 12.7 × 14.5m)の天守が存在していたようです。 天守は関ヶ原合戦後に解体され、その後、再建されなかったようです。
大和郡山城・天守台

大和郡山城・天守台

発掘調査で見つかった、天守の礎石跡が見学できるようになっています。
大和郡山城・天守礎石跡

天守台から、先ほど工事で入れなかった郭の様子が良く見えます。
工事はだいぶ進んでるように見えますね...。
電車でも行きやすい場所なので、何年かしたらまた来るかも知れないですね...。
大和郡山城・天守台からの眺め

さかさ地蔵
資材集めに苦労していたようで、色々な物が転用されました。
こちらは天守台北面の石垣に使用された地蔵です。地蔵には  1523年の刻銘があるようです。
他にも、五輪塔や石灯籠、石臼など、750 ほど見つかっているようです。
しかし、地蔵や五輪塔を城の石垣に使うのは、縁起が悪そうに思えるのですが、昔の人はあまり気にしなかったのでしょうか...。 それにしても、逆さにしなくても良さそうですが...。
大和郡山城・さかさ地蔵

駐車場に戻る途中に、石垣から見つかった石造物が展示されてました。
1588年に豊臣秀長が城主になると、住民に対して一戸あたり一定量の五郎太石の提出を命じたそうです。 柳澤文庫周辺には、そういった石造物が多いようです。
住民も大変でしたね...。墓石でも何でも出さないといけない訳ですから...。
大和郡山城・石垣から見つかった石造物

大和郡山城・石垣から見つかった石造物

街中の城郭としては、珍しく水堀が埋め立てられずに残されていた印象を受けます。
周辺が公園として整備しているので、何年かすれば駐車場の問題も解消されているかと思います。
電車による交通の便も良い場所なので、機会があればまた来たい場所です。


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