京都府 醍醐寺・三宝院 ― 2023年11月25日
三宝院は醍醐寺塔頭の一つです。
1115年に勝覚によって創建されますが、応仁・文明の乱(1467 ~ 1477年)の被害で荒廃します。 その後、豊臣秀吉と親交が深かった義演によって有名な 1598年の「醍醐の花見」が催され、三宝院は再興されます。
なお、三宝院の庭園は秀吉が花見の際に自ら設計しました。
醍醐寺にはしばらく来てないなと思っていたら、実に 14年ぶりの訪問でした...。
玄関
大玄関と小玄関があるとの事なので、恐らく正面の大きな入り口が大玄関で、左側の小さ目な出入り口が小玄関でしょうか? それとも小玄関は別の場所?
大玄関正面が「富嶽の間」、小玄関の正面が「竹の間」との事。
竹の間?
「鸞鳳」と書かれた屏風がある部屋。
写経をするような机が置かれているので、普段は写経道場なのでしょうか?
玄関口近くにあった部屋で、ここが「竹の間」でしょうか?
襖絵も竹の絵ですし...。
鏡餅
多分、「五大力尊仁王会」の「餅上げ力奉納」で使われている鏡餅だと思います。
「五大力さん」とも呼ばれる法要で、五大明王の力を授かり無病息災を祈願します。
「餅上げ力奉納」では、女性用 90kg、男性用 150kg を持ち上げている時間を競うようです。
これは男性用なのかな?
葵の間
この部屋の襖絵は、京都三大祭りの一つ「葵祭」の風景を描いた物です。
この先に、「秋野図」の襖絵の「秋草の間」、「竹林花鳥図」の襖絵の「.勅使の間」が続きます。
ここから唐門が良く見えます。
間取り図から察するに、左側の建物が秋草の間、.勅使の間です。
そして、右側の建物が表書院です。
唐門
1599年に建立された平唐門です。
黒の漆塗りで、両側に菊の紋、内側に桐の紋が並びます。 紋には金箔が施されている豪華な門です。 2010年に修復されたようなので、綺麗な状態です。
修復前も見た事がありますが、当時は漆や金箔が剝がれ落ちていて、かなり傷んでました。
国宝指定の門です。
表書院
「醍醐の花見」の時に、能の楽屋を奈良から移築した物です。
平安時代の寝殿造りの様式をと取り入れた国宝指定の建物です。
上段、中段の襖絵は長谷川等伯一派が手掛け、下段は石田幽汀が手掛けました。
庭園は、表書院の縁側から眺めるのが一番でしょう。
ここの庭園は中に入れないので、おちついて眺める事ができます。
多分、これが賀茂の三石でしょう。
一番手前の石が川の流れが割れる様子を表し、その奥が淀んだ川の流れ、その奥が速い流れを表してるそうです。
これも秀吉プロヂュースなのでしょうか?
純浄観
美しい襖絵は浜田泰介画伯の物です。
純浄観は、秀吉が花見をした時の建物を槍山から移築した物と伝わります。
「醍醐の花見」って醍醐寺の境内かと思ってたのですが、槍山の方に登った所だったのですね...。 しかし、花見の為にこのような建物を山の上に建てるとは...。
本堂
本尊の弥勒菩薩像が安置されている御堂です。 弥勒堂とも呼ばれています。
弥勒菩薩像は 1192年に後白河法皇の為に作れた物です。
本堂近くの庭園。
苔の形状が独特です。 何を表しているのでしょうか?
聖天堂
本堂から折り返してくると右奥に見えるのが聖天堂です。
説明が見当たらず、どんな建物なのか良く分かりません。
奥宸殿
江戸時代初期の建物のようです。
上座にある棚は「醍醐棚」と呼ばれる違い棚で、天下の三大名棚の一つだそうです。
(残り2つは、修学院離宮の霞棚と、桂離宮の桂棚だそうです...。)
屋根の上の建物は何だろう?
鐘楼にしては小さすぎるし...。
秀吉が醍醐寺に花見に来た時、三宝院はどんな感じだったのだろう..。
多分、まだ荒廃していたような気がするけど、庭園を造営したくらいだから感じる物があったのでしょう...。
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