埼玉県 渋沢栄一記念館、尾高惇忠生家2025年02月09日

旧渋沢邸「中の家」の後は、渋沢栄一記念館、尾高惇忠生家を見学します。
これらは、「中の家」からそれほど離れてない場所にあります。

渋沢栄一記念館
渋沢栄一に関する資料などが展示されている資料館で、1995年に開館しました。
こちらにも渋沢栄一のアンドロイドがあり、渋沢栄一の講演を聞く事もできます。
ちょうど、団体さんと鉢合わせになった事もあり、訪問時は思ったよりも混雑していました。

駐車場はかなり広いです。
これだけ広ければ、満車で停められない事は無いと思います。
渋沢栄一記念館・駐車場

昔の役場とかを転用したのかと思ったのですが、特にそのような情報は見つかりませんでした。 多分、1995年の開館に合わせて建てられた建物だと思います。
深谷市が管理しており、資料室の他に体育室や図書室、会議室などがあり、深谷市の公共施設も兼ねているようです。
渋沢栄一記念館

渋沢栄一記念館

渋沢栄一像
建物の裏側にある銅像です。
何故、目立たないこの場所に銅像を建てたのか謎です...。
写真では大きさが伝わり難いのですが、この銅像は高さ約 5m もある大きな物です。
銅像が作られたのは 1988年のようで、深谷駅前に駅前区画整理完成を記念して作られました。 渋沢栄一記念館が完成した時にこの場所に移されたようです。
渋沢栄一記念館・渋沢栄一像

尾高惇忠生家
尾高惇忠は、渋沢栄一の従兄にあたる人物で、栄一が少年の頃はここで多くの学問を学んだようです。 尾高惇忠は、富岡製糸場初代場長や、第一国立銀行(渋沢栄一が創設した日本最初の銀行)の盛岡支店長、仙台支店長などを務めました。
江戸時代後期の建物で、「中の家」と同様に屋根の上に換気用の高窓があります。 ここでも養蚕が行われていたのでしょう。
尾高惇忠生家

2階の見学は出来ませんが、渋沢栄一や尾高惇忠らが横浜外国人居留地焼討ちの謀議をしたのはここの2階にある部屋のようです。 この攘夷計画は惇忠の弟、長七郎の説得により中止になります。 もし、長七郎の説得が無ければ、栄一や惇忠のその後の実業家としての活躍は無かったかも知れません。
なお、長七郎の方も坂下門外の変に参加する所を兄の惇忠に説得されて離脱した経緯があります。 但し、坂下門外の変は決行された為、長七郎は幕府の嫌疑を逃れる為にしばらくの間潜伏する事になります。
尾高惇忠生家

尾高惇忠生家

煉瓦倉庫
中庭には煉瓦造りの蔵があります。 「上敷免製」の刻印がある煉瓦が周辺から見つかっている事から、渋沢栄一が初代会長を務めた日本煉瓦製造株式会社製の煉瓦で建てられた倉庫だと考えられています。 見た感じ、イギリス積みと呼ばれる技法のようです。
長尾家は、米穀や塩、菜種油などの日用品や藍玉の加工販売などを行ってました。 それらの保存用かな?
尾高惇忠生家・土蔵

尾高惇忠生家・土蔵

日本家屋と煉瓦倉庫の組み合わせは珍しいように思えます。
でも、煉瓦倉庫とは言え、屋根などは和風の建物に見えます。
尾高惇忠生家・中庭

尾高惇忠生家には、主屋と連結するようにもう一つの蔵があります。
普通、蔵は防火性を考慮して漆喰を塗った土蔵が多いのですが、この蔵は板張りです。
蔵と言うよりも、増築した部屋の一部のように見えます。
防火性の高い煉瓦倉庫の方は明治時代に入ってからの物なので、江戸時代はこちらの蔵をメインに使われていたのかも知れませんね..。
尾高惇忠生家・蔵

尾高惇忠生家・蔵

今は残ってませんが、主屋の向には長尾家の長屋があり、作業場や道場として使われていたようです。 ただ、長屋は昭和になってから移築され、その後取り壊されてしまったようです。


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