長野県 松代周辺(2) ― 2013年05月04日
前回の続きです。
旧横田家住宅
横田家は、松代藩に仕えた中級藩士で郡奉行(農政を管理し、年貢の収納を管理する役職)を務めました。 元の場所にほぼ当時の状態で建物が残っており、国の重要文化財に指定されています。
ちょっと手が入ってそうですが、表門も当時の状態で残っているようです。
表門が建てられたのは 1842 年になります。
主屋が建てられたのは 1794 年。
表から見たときは気が付きませんでしたが、内側から見ると2階建てに見える変わった建物です。
なお、この横田家住宅は、富岡製糸場で働いていた頃の事を書いた「富岡日記」の著者、和田(旧姓、横田)英の生家です。 世の中、思わぬ所で繋がっているものです。
隠居屋は1820 年に建てられました。 8畳と6畳の居間と、囲炉裏のある板の間からななります。 同規模の他の建物の部材を使用して建てられているようです
旧樋口家住宅
樋口家は上級武士の家で、元々は武田家の家臣でした。 現在の場所に住み始めたのは 1765 年頃になります。 主屋は 1862 年に修理されている事が解っているので、それよりも前から存在していたようです。
文武学校
水戸の弘道館にならって作られた藩校で、1855 年に開校しました。
明治4年の廃藩置県まで学問・武道の教育の場として使用され続けました。
閉校後も松代学校校舎として建物が使用された為、当時の姿を残す事が出来ました。
柔術所なので、投げ技なども練習したと思いますが、板の間なので投げられたら痛そうです。
西序と聞いて何をする所かイメージが付きませんでしたが、しつけ方や漢方医学、西洋医学の講義が行われた場所になります。
剣術所は剣術指南の場で、数種類の流派を学ぶ事ができました。
天井の梁が立派で印象的な建物です。
左右の一段上がった場所に仕切られた畳張りの場所があります。
東序は軍学を学ぶ場所だったようです。 西序と比べると少しコンパクトな感じがします。
一番大きな建物が文学所で正庁とも呼ばれてました。 東半分が学問の場として使用されました。
大抵の藩校では孔子を祀ってますが、この学校に関しては祀っていません。
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