沖縄県 首里城(1)2023年03月19日

首里城へはモノレールで行くのが一番簡単かも知れませんが、今回は勝連城からバスで移動します。 勝連城跡前のバス停から 52系に乗り、普天間まで移動し、普天間から 125系で山川バス停まで行きます。 そこから首里城の守礼門までは徒歩で10分程度です。
今回、普天間で 52系から 125系に乗り換えましたが、52系と 125系はかなりの区間で並走しているので、他のバス停でも乗り換え可能だと思います。 普天間の場合、52系と 125系のバス停が思ったよりも離れていたので、乗り換えは他のバス停の方が良いかも知れません。

守礼門
思ったよりも到着に時間がかかったので焦っていたのか、守礼門の写真は全て内側から...。
写真には写ってませんが、「守禮之邦」の変額がある事から「守礼門」と呼ばれてます。
本土では、あまり見かけ無い中国様式の門です。
守礼門が建立されたのは 1527 ~ 1555年頃です。 当時の門が戦時中まで残っていたのかは不明ですが、守礼門は戦争で破壊されてしまい、現在の門は 1958年に復元された物です。 
土産として ATM で数枚の二千円札を入手しましたが、二千円札の図柄も守礼門です。
首里城・守礼門

歓会門
守礼門を通って最初の門は、首里城の外郭にある歓会門で、1477 ~ 1500 年頃に建立されました。
歓会門は戦争で焼失しており、現在の門は 1974 年に再建されました。
石造りのアーチ門で、その上に櫓が建てられています。
門の両側ではシーザーが邪を払っています。 神社では狛犬を見かけますが、お城の門ではちょっと珍しいかも知れません。
首里城・歓会門

首里城・歓会門

歓会門を通ると綺麗な花がお出迎え。
奥に見える、首里城に似つかわしくない建物が復元工事をしている場所でしょう。
2019年、首里城正殿は火災により、かなりの部分を消失しました。 火柱を上げる首里城のニュース映像は衝撃的でした。 この事件は私が沖縄に訪問する時期にもかなり影響しました。
戦災からも復興した首里城です。 今回も元の美しい姿に甦る事を願います。
首里城

瑞泉門
二つ目の門は内郭の城壁にある瑞泉門です。
創建年代は 1470年頃ですが戦争で焼失しました。 現在の門は 1992年に復元された物です。
こちらはアーチ門では無く、日本の城郭でも良く見る石垣の上に櫓を建てる櫓門です。
でも、建物の形状は、明らかに中国の影響を受けています。
首里城・瑞泉門

瑞泉門横の石垣です。
かなりの高さがあります。 沖縄の城郭らいし曲線も美しいです。
「中山第一」の石碑の下に、「瑞泉門」の呼び名の元となる、「龍樋」と言う湧き水があります。
が、完全にスルーしてました...。
「龍樋」には 1523年に中国から持ち込まれた龍の石彫刻があります。 見逃してしまいました...。
首里城・瑞泉門付近

漏刻門
「漏刻」とは、中国語の水時計の事らしく、櫓の中に水で時間を測る水槽があったようです。
高官でも国王に敬意を表して籠を下りた事から「かご居せ御門」とも呼ばれてました。
瑞泉門の先は日本の城郭で言う、内枡形虎口のような構造になっています。
周辺の石垣がきっちり積まれているので、刑務所のコンクリート塀のような印象を受けます。
かなり圧迫感を感じます。
櫓門としての形状は、先ほどの瑞泉門と同じです。 15世紀頃に建立されましたが老朽化により撤去されており、1992 年に復元されました。
首里城・漏刻門

首里城・漏刻門

広福門
門の役目をしている建物と言った感じでしょうか? 外側はのっぺりしています。
首里城が城として機能したいた頃は、「寺社座」、「大与座」と呼ばれる役所が置かれてました。
創建年代は不明で、明治時代末には撤去されていたようです。 1992 年に復元され、現在は券売所として使用されています。 
首里城・広福門

チケットを買う場所は門の内側です。
100名城のスタンプも置かれてました。 これで沖縄4城目。 ほぼ計画通りです。
首里城・広福門

広福門外側の様子。
一番奥に見えるのが漏刻門。 左側の建物が広福門です。
右側の中ほどに見える、石段のような場所が日影台。 漏刻門の水時計を補助する日時計が置かれてました。 右手前の建物は供屋と呼ばれる鐘楼です。 ここから時間を伝える鐘が鳴らされていたようです。
帰りに見れると思ってたのですが、右掖門から外に出てしまったので、鐘や日時計を見逃してしまった...。
首里城・広福門周辺

首里森御嶽
券売所の近くにある御嶽で、首里城内でもっとも格式が高い御嶽の一つです。
首里城内には10ヶ所の御嶽があったようです。 
急に古そうな建物が出てきたので昔の建造物かと思ったのですが、1997 年に復元された物でした。
首里城・首里森御嶽

奉神門
正殿前の広場に入る最後の門です。
ここから先は身分の高い人しか入る事が出来ませんでした。
正確な創建年代は不明なようですが、1754年に改修された記録があるようです。
明治時代末に撤去され、 1992 年に復元されました。 ここから先は有料になります。
しかし、あれだけの火災で奉神門はよく無事でしたね...。 正殿前広場周辺の建物で無事だったのは奉神門くらいです。
首里城・奉神門

奉神門前の天水甕を復元した物です。
明治時代に撮影された、奉神門の写真にも同じ物が写っています。
奉神門の前には4個の大きな水甕が地中に埋められていました。 消火用の水が貯められていたと考えられています。 小石が詰められているのは、単に人が落ちると危ないからだと思います。
首里城・奉神門前の天水甕

復元工事用の建屋に首里城の絵が描かれてました。
予定通りであれば、正殿の復元完了は 2026年の秋。
正殿の復元が完了したら、もう一度ここに来たいですね...。 絵では無く、実物を見に....。
首里城・復元工事用建屋

原寸場見学エリアです。
ここで実物大の図面を描く様子や、木材の加工、保管状況などを見学する事が出来ます。
休日だったせいか、何も作業はしてませんでしたが..。
首里城・原寸場見学エリア

火災の残骸も展示されていました。
赤瓦は正殿の屋根に使われていた物です。
鬣や歯や鱗の破片は、屋根にあった龍頭棟飾の表面に張ってあった焼物の破片のようです。
龍頭棟飾のフレームだった塊から出ている針金のような物は、多分、髭だった部分だと思います。
現在、正殿があった場所には入る事が出来ません。
首里城・火災の残骸

首里城・火災の残骸

世誇殿(よほこりでん)
国王が死去すると、次の国王の即位式を行う特別な建物でした。
平常時は王女の居室として使用されていました。
建立年代は不明です。 大正時代に沖縄神社が建立された時、北側に移築されて社務所として使用されました。 現在は元の位置にもどされ、4K高画質18面モニターによる首里城の動画が見れます。
首里城・世誇殿

菊畑・小菊畑
「菊畑・小菊畑」があったと言う伝承に基づいて再現しています。
国王一家や女官の生活に彩りを入れる為の花畑と考えられているようです。
菊畑、小菊畑

これより先が御内原です。


コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://hiros-info.asablo.jp/blog/2023/03/21/9587978/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。