岐阜県 苗木城跡(1) ― 2023年09月16日
苗木城は岐阜県中津川市苗木にある続100名城の一つです。
築城年代に関しては諸説あるようです。 大永年間(1521 ~ 1528年)に遠山一雲入道昌利が築城し、子の遠山景徳の居城だったとの説があります。 但し、遠山氏は 1242年頃に木曽川北部に進出しており、もしかしたら、もっと前から前身となる砦や館のような物がこの付近にあったのかも知れません。
苗木は、武田氏と織田氏の対立に巻き込まれ、1572年頃から岩村城や苗木城は武田氏と織田氏の取り合いになります。
信長の死後、豊臣秀吉の家臣だった森長可に攻められ苗木城は 1583年に落城します。 その時、遠山氏は徳川家康を頼って浜松に逃げます。
遠山氏は関ヶ原合戦の時に苗木城を奪還し、江戸時代に苗木藩が成立すると、幕末まで遠山氏がこの地を統治します。
A1 駐車場
続100名城のスタンプが置かれている、苗木遠山史料館が開館する前に到着したので先に城の散策をする事にします。
苗木城には沢山駐車場があります。 今回はA1駐車受にバイクを停めました。
散策を開始するとすぐに、苗木城の案内図が書かれているパンフレットが置かれていたので助かりました。 早朝ですが、思ったよりも人が多いです。
なお、この駐車場までの道路は石畳で、バイクで走るとかなりの振動でした...。
駐車場から少し歩くと石垣が見えてきました。
苗木城の石垣は、数種類の積み方があるようです。 もしかしたら、戦国期から幕末まで存続した歴史の長い山城なので、技術的な違いが出ているのかも知れません。
この先を右に行くと足軽長屋のあった場所に出ます。
昔の絵図を見ると、多分、この辺りのどこかに竹門があったのだと思います。
足軽長屋跡
この辺りに表方の足軽が出勤した時に立ち寄る長屋がありました。
足軽は、ここに立ち寄った後、城内の役割が与えらた場所に向かっていたようです。
ここには3~4棟の建物があったようです。
足軽長屋の奥の方には、遠山氏の祈祷所だった龍王院がありましたが、明治元年に廃寺になりました。 古い絵図では、龍王院として複数の建物が描かれているので、それなりの規模があったようです。 ただ、建物の位置関係は分かりませんでした。
足軽長屋跡を出て、二之丸の方に移動します。
二之丸手前にある石垣の様子です。
手前の方は綺麗な切込み接ぎの布積みですが、奥の方は石を斜めに積む谷積みです。
年代的には谷積みの方が新しいと思えるので、江戸時代後期に石垣の修復工事でもしたのでしょうか?
二之丸跡
ここには藩主の住居や、家臣が集まる部屋などがありました。
郭には一定間隔で礎石らしき石が置かれており、そこに建物があったのだと思います。
この後、坂下門付近から二之丸を眺めた所。 ここからの方が礎石の並びが良くわかります。
郭を目一杯使う感じで建物が建てられていたようですね。
結構、大きな建物だったようですが、何に使われていた建物だったのでしょうか?
的場跡
二之丸奥から下を見ると的場跡が見えます。
本来は的場跡に入れるはずなのですが、訪問当日は二之丸より先が通行止めになっていました。 崩落とか、何かしらの問題が発生していたのかも知れません。
ここで折り返す事にします。
石垣の所々に巨石があります。
苗木城には巨石が多いので、自然石を石垣に利用しているのかも知れません。
奥に坂道が見えますが、その辺りに台所門があったようです。
奥の坂道から上に登って行きます。
石垣の下の方に建物跡らしき礎石が見えます。 結構、建物が多かったみたいですね...。
さらにその下には、先ほど歩いてきた遊歩道が見えます。
苗木藩は1万石程度の小さな藩でした。 この規模の大名の場合、城は持たない場合が多いようですが、苗木藩は石高に対して立派な城を持っていたようです。
この規模の城を維持するには、財政的に大変だったかも知れません。
大矢倉跡
17世紀中頃に築かれた大きな櫓台です。 櫓は三階建てで、苗木城最大の建物でした。
一見すると、天守台かと思うほど立派な物です。
1階は3方が石垣に囲まれており、石垣に登ると現在でもその様子が見れます。 1階は倉庫のように使われていたようです。
位置的にはこの奥にある北門を見下ろす場所になります。
駈門跡
この門の先には竹門がありました。
裏口的な門なのかも知れませんが、説明が無かったので役割については分かりません。
見取り図を見ると、門では無く建物のような書かれ方をしているので、大きな櫓門のような建物だったのかも知れません。
見取り図を見ると、多分、駈門からこの辺りまで建物があったのだと思います。
この屋根のように置かれた大きな石も、当時の物なのでしょうか?
当時の建物を想像するのが、ちょっと難しいですね...。
門と言うより、建物の下を通るような感じだったのかな?
牢屋跡
ここに、2m × 4m ほどの牢屋がありました。 苗木城の牢屋はここだけです。
案内によると、明治初期に政争に敗れた上級武士が収監されていたようです。
江戸末期の苗木藩は財政的に破綻状態でした。 廃藩置県後の旧藩士の生活は、そうとう厳しかったようです。 また職制改革により下級武士が大参事に抜擢されます。 それにより反発した上級武士は弾圧されます。
恐らく、その時に弾圧された上級武士がここに収監されたのでしょう..。
御朱印蔵跡
巨石の奥に石垣が見えますが、そこに御朱印蔵がありました。
ここには重要や書物や刀剣類が保管されていました。 石垣が綺麗な切込接ぎなので、年代的には新しい部類の建物かも知れません。
また、この巨石の手前には大門があり、城の中心部への出入りを制限していました。
綿蔵門跡
大門の次にある門です。 年貢として納めた真綿が門の2階部分に保管されていた事から綿蔵門と呼ばれていたそうです。
門跡には礎石跡らしき石が置かれています。
真綿を保管していたとの事なので、多分、櫓門だったのだと思いますが、この道幅だと大きな門は想像し難いです。 どんな感じの門だったのでしょうか...。
坂下門跡
折り返した少し先にあるのが坂下門跡です。 この門は大門から3つ目の門です。
この門は別名、久世門とも呼ばれていました。
「久世」とは、苗木城の改修に尽力した徳川家譜代大名だった久世家かた付けられた物です。
どんな門だったのかは不明ですが、それほど大きな門では無かったような気がします。
右側の巨石が凄いですね...。
菱櫓門跡
とにかく門が多いです。
続いて現れたのが菱櫓門跡です。
柱跡と思われる石の幅や道幅を考えると、櫓門とは思えないです...。
見取り図とも位置関係が少し合わないのが気になります。
大体、半分くらい登ってきた所で次回へ、
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