岐阜県 郡上八幡城 ― 2023年09月16日
1559年、東常尭が遠藤胤縁を暗殺する事件が起こります。 その事件をきっかけに東氏は胤縁の弟 盛数と、胤縁の子 胤俊に攻められ滅ぼされます。 その時、胤俊が陣をしいたのが牛首山(八幡山)でした。
盛数と胤俊は、郡上を半分づつ領地としますが、盛数の子 慶隆と胤俊の間でいざござが起こります。 郡上は勝利した慶隆によって統治される事となり、1566年に慶隆が郡上八幡城を築城します。
1588年、慶隆が転封になると稲葉貞通が入り、郡上八幡城の石垣や天守台が整備するなど、城の大規模な改修が行われます。 なお、慶隆は関ヶ原合戦の後に再び郡上八幡城の城主に戻り、1692年まで遠藤氏が所領します。 最後の城主は青山幸宜で、廃藩置県により郡上八幡城は廃城になります。
城山公園駐車場
郡上八幡城に来たのは13年ぶりです。
以前来た時はバイクで上まで登れたのですが、なんと二輪車通行止めになってました...。
なので、今回は城の麓にある城山公園駐車場にバイクを停めて、歩いて登る事になりました。
確かに、前回来た時、細く曲がりくねった坂道を GSX-R 750 で登るのに苦労した記憶があります。 転倒事故とかが多かったのかも知れません。
今回は歩いて登った郡上八幡城への道。
この先、坂道もカーブもきつくなります。
一方通行ですが、バイク初心者が登るには厳しい道路かも知れません...。
歩いて登るのは大変ですが、悪い事だけでは無かったです。
前回訪問時はバイクで登るのに必死だったので、城の下の方の石垣には気が付きませんでした。 野面積みの石垣で、角の算木積に使われている石材は、あまり加工されていません。
年代的にそれほど新しくは無さそうなので、稲葉氏の時代の石垣でしょうか?
この辺りの石垣は打込み接ぎでしょうか?
先ほどの石垣よりも、石材が加工されている感じがします。
角の算木積に使われいる石材も、先ほどとはだいぶ違います。 技術的な進歩を感じます。
前回は上の駐車場から天守に直行したので、この辺りの石垣の素晴らしさは見逃してました。
思ったよりもたいした距離では無かったので、歩いて登るのも悪くは無いです。
腰曲輪の石垣が見えてきました。
腰曲輪のような所に出ました。
ここから街の方が良く見えます。
力石
1667年に城の改修を行い、その時の人夫の一人、作兵衛が城下の河原から背負って運び上げた石です。 重量は 350 kg あります。
しかし、奉行が褒めると作兵衛は感涙し、その場で力尽きて死んでしまいます。
奉行はこの石の使用を禁止しますが、昭和に天守を再建した時に草むらに放置されていたこの石が見つかります。 作兵衛の思いを後世に残す為、ここに安置される事になりました。
作り話かと思ったのですが、昭和初期の女性でも米俵1俵(60 kg)を普通に背負って運んでおり、酷い時は2~3俵(120 ~ 180 kg)も運ばされたとの証言も残っているようです...。
現代人とはちょっと次元が違うようです...。
天守が見えてきました。
白い天守がカッコいいです。 早く中に入りましょう。
大手門
1992年に復元された2階建ての櫓門です。
鉄筋コンクリート製です。
ここから先は入場料が必要です。 今回は郡上八幡博覧館との共通券を購入しました。
およし観音堂
城の改修工事は難工事だったようで、人柱をたてる事になりました。
資材運びを手伝っていた17歳の「およし」は、進んで人柱になったと伝わります。
ここは、およしを祀る観音堂です。
お城の人柱伝説は多いですが、実際に人柱をたてたかについては否定的な意見が多いようです。 ただ、昔の土木工事では犠牲者が出る事も珍しく無かったと思うので、難工事で人柱伝説が語り継がれるのは供養的な意味合もあるのかも知れませんね...。
模擬天守
郡上八幡城の天守は、昭和初期の 1933年に再建された模擬天守です。
当時としては珍しい、木造による模擬天守で、木造で再建された模擬天守としては日本最古の建物です。 正直、鉄筋コンクリートの方が簡単だったと思いますが、手間のかかる木造で再建したのは大英断だったと思います。
今後も上手く維持管理を続けて欲しいです。
続100名城のスタンプは天守1階に置かれてます。
天守内は資料の展示館になっています。
模擬天守とは言え、再建されてから 90年も経てば文化財的な価値も出てきます。
また、最近は耐震補強工事として、鉄骨による補強工事も行われています。
郡上八幡城の模擬天守は、模擬天守を建てる際の現実的な一つの方向性を示してるのかも知れませんね...。
天守最上階から見た本丸の様子です。
隅櫓、高塀は天守と同じ年に再建された物。
縄張りはそれほど変わって無いと思うので、郡上八幡城はコンパクトな城だったようです。
では、本丸の周辺を見学しながら帰る事にしましょう。
大手門を出て、本丸周辺の石垣を見学します。
本丸周辺の石垣は野面積みでした。 ただ、1982年に石垣の修復工事が行われており、一部の石垣は積み直されているので、全てが当時の物では無さそうです。
何となく、上の方の石が新しく見えなくも無いので、上の方は修復された部分かも?
でも、当時の雰囲気は残っていると思います。
凌霜隊顕彰碑
多分、この辺りは松之丸と呼ばれていた郭だった場所だと思います。
凌霜隊は、戊辰戦争の時に旧幕府軍として戦った部隊です。
郡上藩はどちらに付くのか内部で意見が割れており、脱藩した藩士が凌霜隊として集結したようです。 ただ、藩の生き残りを賭けた二股政策だったとの説もあるようです。
凌霜隊は会津戦争に参戦しますが敗北。 降伏した隊士は郡上藩に護送されて処刑されそうになりますが最終的には赦免されます。 もし、本当に藩の二股政策だったとしたら酷い扱いですね...。
松之丸に復元された隅櫓付近の様子です。
櫓は意外と小さい印象。
この後、郡上八幡博覧館で有名な郡上おどりを見学。
下駄の音が凄いのにびっくりしました。 徹夜おどりで有名ですが、7月中旬から9月上旬まで毎晩行われていた事は知りませんでした。 ちょうど終わった頃に訪問したようで、ちょっと残念ですが、それはそれで、混雑して大変だったかも知れないですね...。
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