長崎県 対馬の南部を散策2023年05月01日

金田城の散策を終えましたが、本日、残りの時間で対馬の南部を散策する事にします。
金田城から次の目的地に移動する途中、携帯会社から SMS 通知が送られてきました。
バイクを止めて通知を見ると、海外ローミングで通信している事による注意通知でした。 どうやら、携帯電話の設定を変えないと、対馬は場所によって韓国側に繋がってしまうようです。
案内に従って境内電話の設定を変えました。
対馬は本当に国境の街なんだと実感した出来事でした...。

椎根の石屋根倉庫
石屋根倉庫は穀物などの食料品の保管庫として古くから使用されてきました。
強い季節風への対策として、屋根に板石が使われているのが特徴的です。
また、火災への対策として民家から離れた場所に設置されていました。
周辺には駐車場のようなスペースが無いのでご注意を。
対馬・椎根の石屋根倉庫

対馬・椎根の石屋根倉庫

金石城跡
16世紀頃、宋氏一族の内紛により当時の居館が消失し、宋盛賢(のちの将盛)がこの地に金石屋形を建てました。 1661年の大火は町全体に大きな被害が発生し、町の復興に合わせ、1669年頃に屋形も拡張され金石城と改名されます。
1811年に朝鮮通信使が来島した時は、幕府上使の小笠原長時の宿館としても使用されました。  ここは、幕末まで対馬統治の中心的な場所でした。
現在は復元された櫓門が残る程度で、城内は庭園のようになっています。
あまり、城だった頃の様子は残っていません。
金石城跡・櫓門

金石城跡

萬松院
金石城前の通りを奥まで進むと萬松院の山門が見えてきます。
萬松院は宗の菩提寺で、1615年に宗義成が父義智の菩提を弔う為に創建しました。
1701年、1727年の相次ぐ火災で多くの建物を消失、幕末後は寺の規模を縮小して現在の姿になりました。 山門は江戸時代の建物で、火災による焼失を逃れた対馬最古の建物です。
萬松院・山門

本堂
現在の本堂は、明治時代の 1880年に再建された物です。
今では萬松院の建物は、他にに庫裏がある程度です。
最盛期には大師堂、護摩堂、経蔵、宝蔵などもあった大きな寺院でした。
萬松院・本堂

百雁木
御霊屋へと通じる、132段の階段。
静かな良い場所です。
階段の途中に、下御霊屋、中御霊屋があり、登った先が一番大きな上御霊屋です。
萬松院・百雁木

萬松院・百雁木

萬松院・百雁木

中御霊屋
上段と下段の2段構成になっており、上段を中御霊屋、下段を下御霊屋と呼びます。
ただ、百雁木の中腹にある御霊屋を総じて中御霊屋と呼ぶ場合が多いようです。
この辺りは、主に、藩主の側室や童子のお墓が祀られていますが、例外的に宋氏10代の貞国のお墓が中御霊屋にあります。 何か隠れた理由があるのでしょうか?
萬松院・中御霊屋

萬松院・中御霊屋

上御霊屋
宋家19代~32代までの藩主や夫人、子のお墓が祀られている場所です。
東西、2つの区画に別れています。
宋氏中興の祖と呼ばれる、第3代藩主義真と、その夫人のお墓は非常に大きなお墓です。
お墓に、その頃の繁栄ぶりが現れているのかも知れません。
萬松院・上御霊屋東部

萬松院・上御霊屋東部

対馬藩お船江跡
対馬藩の御用船をけい留した、1663年頃の船溜まりです。
周辺には正門、倉庫、休憩所などもありました。
訪問時は歩いて渡れるほど水深が浅かったのですが、当時はもっと深かったのでしょうか?
対馬藩お船江跡

対馬藩お船江跡

対馬藩お船江跡

対馬藩お船江跡

フェリーの連泊で体力的にも厳しかったので、今日は早めにホテルに行って休む事にします...。 次に訪問する機会があれば北部の方を回ってみたいと思います。